私はその記事で、いまも彼の月命日にはこの河川敷でお祈りを捧げる人、彼が帰りたがっていた遠い故郷・隠岐諸島の西ノ島までわざわざ行って、美しい浜辺から持ち帰った海水で現場を潤す人などがおられることを知りました。遼太さんを全然知らなかった人たちが、他人事とは思えないと彼の無念を今も受け止め、祈っておられるのです。
祈れば遼太さんが戻ってくるわけではありません。それでも見ず知らずの人が、今も悼まずにはいられない悲惨さが、この事件に限らず多くのイジメ事件で共通しています。
たまき様がここで訴えておられる教育委員会の人や副校長の言動に我が目を疑いました。想像力の欠片もなく、弱者の痛みに寄り添う気持ちが心の片隅にもない人たちです。いつもイジメで大事件に至ったときに出てくる、その肩書の人たちの表情とダブります。
彼らの釈明会見の内容は、いちいち聞かなくてもいつも同じです。「被害者は心の優しい子どもさんだったと聞いています」。「調査の結果、イジメや虐待はありませんでした」。一応謝ってはいますが、心からでないのがその冷たい言葉や無表情で判ります。
例えば上村さんの事件一つでも、見ず知らずの他人でさえこれほど心を痛め、悼んでいる人が大勢おられるのに、教育現場にいる彼らは、最近のイジメが引き起こした悲惨な事件にも、何も心が動かなかったことになります。何一つ学習してないのがその証拠です。取り返しがつかない事件に至らなくとも、これは立派な犯罪です。今の彼らの職を奪うほどの働きかけが必要です。
知的障害者は、普通学校に通うべきでないか
この副校長は、知的障害者を普通学校へ通わせている親も悪いと言っています。
事情はいろいろあるでしょうが知的障害者を普通学校へ通わせている理由の一つには、社会に出てからの(多分親が先立ったあとも)、大多数者である健常者との接し方や団体行動、協調性等を学ばせたい、という親心にあると思われます。
知的障害者にもいろいろ程度があり、設備や教員が充実している特別支援学校の方が本人のためだという意見もあるのは承知しています。実際そのような学校へ通った人の話を聞いても、その方が良かったという人や、ぬるま湯につかっていたようで、実社会で打たれ弱くなったという体験など、さまざまです。
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