民主主義を壊す「コスパ第一主義」という病 日本は「奴隷天国」化している
内田:社会契約というのは、自律的・合理的に思考できる市民が存在するということが前提になっているわけですけれど、今の消費社会はそういう「合理的に思考できる市民」を育成する気がないですね。みな「どうやってカネを儲けるか」しか考えていない。いや、儲けたければ、儲けてもいいんですよ。ただ、その場合でも、目の前にあるものに飛びついて、それを費消し尽くしてしまったら、先ゆきカネが儲からなくなるという見通しが立てば、現時点での欲求を自制するはずです。「間尺に合わない」ことはしない。でも、今はそれができなくなっている。「間尺に合わない」という言い方自体、ほとんどもう耳にすることないですもの。
商品の背後に残る血の痕跡を消していく消費社会
白井:消費社会についてはさまざまな定義がありますが、私なりにこれを定義するなら、「消費の対象の背後にある血なまぐさい現実について、人々が一切想像しなくなっている状態」ではないかと思います。
たとえば、ここにスマホがあります。これを買って、便利に楽しく使うことはみなやっている。一方で「このスマホがどこでどうやって作られたのか」という想像は、おそらく大部分の人がしていない。アップルから製造を委託された台湾企業が、中国で労働問題を起こして話題になりましたけれども、部品までさかのぼれば、どのスマホもそんなふうにして世界中の工場を使って作られ、その中にはひどい搾取も含まれているでしょう。
さらに素材までさかのぼるなら、スマホは金属や石油製品でできている。石油の採掘には、血なまぐささがつきまといます。石油の利権をめぐって世界的に武力闘争が行われてきた歴史があり、今もリビアやナイジェリアあたりの石油のパイプラインではISなどの武装ゲリラの襲撃を受けていて、施設を守るために世界の石油メジャーが民兵を雇って、襲撃してくるゲリラを撃ち殺しているわけです。
なべてわれわれが普段使っているあらゆる商品の背後には、そういった血なまぐさい現実というものが存在する。しかし現代の消費社会においては、その現実は消費者から隠されている。商品の背後に残る血の痕跡を消していくことに大変な努力を払うのが、消費社会の特徴です。
ディズニーランドなどは、まさにそうした消費社会のシンボルと言っていいでしょう。日本では1980年代前半、消費社会がまさに爛熟期を迎えようとする時代にオープンしました。「背後にある現実を隠しきって、消費者に夢の国を提供する」というディズニーランドの戦略が、見事に時代の波に乗ったわけですね。