「いいね至上主義」の評判社会は、暴走をする 共感や道徳感情が牙をむくメカニズムとは?
SNSに功罪はあれど、「共感をベースにした評判社会」という言葉には何か否定できないものがある。他人の喜びや悲しみといった感情に寄り添うことができ、周囲からどのように思われているか可視化される状態であれば、さぞかし理想的な社会になるはずだ。
しかし、実態はどうだろうか。人々のつながりは誹謗中傷や負の感情を運ぶ時の方が勢いが強く、よりスキャンダラスな方向へと向かっているような印象も受ける。ならば、世の中は「共感をベースにした評判社会」とは違う方向へ進んでいるのだろうか?
評判社会の負の側面
本書はこのような疑問に対して、明快に回答する。むしろ、これは共感をベースにしているからこその動きであると説くのだ。驚くのはそのメカニズムを、1942年と1950年に起きた2つの冤罪事件(浜松事件と二俣事件)、そして1759年に出版されたアダム・スミスの『道徳感情論』という2種類の要素から解き明かしていることだ。
なぜ、SNSなど存在もしなかった時代の話が、ここまで現代社会を照らすことができるのか? そしてなぜ、人間の本性である「共感」と「道徳感情」が悲劇を招いてしまうのか。人間が進化の過程で身につけた本性にまでさかのぼり、評判社会の負の側面を描き出す。
2つの冤罪事件において、より本書でページを割かれているのは二俣事件の方である。静岡県磐田郡二俣町で夫婦が匕首で刺殺。長女が絞殺され、次女も母親の死体で圧死、1300円を強奪された。その後18歳の少年が逮捕され、拷問によって自白する。一審、二審とも死刑判決が出たものの、最高裁は「自白の真実性が疑われる」と差し戻し、1957年に東京高裁で無罪が確定した。
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