「スルー技術」を鍛えればずっと生き易くなる 「過剰適応」に陥りやすい日本人への処方箋
最近、『嫌われる勇気』という本がきっかけで、アドラー心理学がブームとなっていますが、アドラー心理学の主要な理論に「共同体感覚」というものがあります。アドラーは、他者の感情に惑わされず、主体的に生きるべきだと説く一方で、人と人とが手を取り合い、社会や共同体を作って生きているという現実を、心理学的に非常に重要な要素として位置付けていました。
すべてを受け止めようとして、過剰適応に陥って苦しむ人がいる一方で、あまりにも自分本位に「スルーする」ということが行き過ぎてしまうと、今度は社会という共同体の中で生きてゆく意欲が失われてしまい、虚無感に苛まれてしまう人も出てきます。「自立して、主体的に生きる」ということと、「共同体に支えられている」ということは「車の両輪」のようなものであり、どちらか一方だけで成り立つものではないのです。
そういう人間という生き物のありようからすれば、僕らはそもそも、すべてを「スルーする」ことなどできないのだ、ということがわかります。それがどれほど心をざわつかせるメッセージであったとしても、目にした以上「完全にスルーする」ということはなかなか難しいのです。
「パターンにはまっていたこと」を気づかせる
目にするだけで心がざわついたり、嫉妬したり、腹が立ってしまうような書き込みであっても、僕らは実は、そのすべてをスルーすることができない生き物である。だとすれば、どうしたらいいのでしょうか。ここでひとつ、僕自身がやってきた方法をご紹介しましょう。
それは「これもまた繰り返されてきたこと」と唱える、という方法です。
僕らの言動や、それを受けたときの感情の動きというのは、かなりの部分、パターン化されたものです。SNSだけに限ったとしても、この10年ほどの間に、僕らは同じような書き込みで、同じようなリアクションを繰り返しています。特に、「相手の期待に応えること」をアイデンティティの中核に据えた、やや過剰適応気味の私たち日本人は、この「暗い予定調和」のループにずぶずぶとはまってしまいやすい。
この悪循環から抜け出すためには、自分の感情が「繰り返されている」ということをしっかりと自分に認めさせる必要があります。「これもまた繰り返されてきたことなのだ」と唱えることで、フッと自分の感情がある種のパターンにはまっていたことを、自分自身に気づかせる。気づきさえすれば、僕らは自然と、その書き込みを見たときに生じたざわついた感情から、手を離すことができます。
これは「スルーする」ための方法であると同時に、自分の思考や、感情の枠組みを打ち破っていくトレーニングだということもできるでしょう。
「炎上」や「論争」自体も、何度となく繰り返されているものですが、何よりも反復しているのは、自分自身の感情であることに気づき、それを乗り越えていく。そうすることができれば、僕らはSNSを眺めているときでさえ、成長することができるのです。
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