「スルー技術」を鍛えればずっと生き易くなる 「過剰適応」に陥りやすい日本人への処方箋

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ただ、「スルーする力」ということを考える上では、こうした国民性のようなものを踏まえておくのは重要です。というのも、「他人の期待に応えよう」というメンタリティがベースにある日本人は、スルーすること自体に不安を覚えやすいからです。目の前に来たボールを見逃すためには、他人の言動とは関係なく自立した自己像というのが前提となるわけです。

SNSの書き込みを見ると、私たちはついついそれを「受け止めよう」とします。例えば「世の中にはこんなひどい現実がある。君はどう思うんだ!?」と問いかけられると、何か答えなければいけないんじゃないか、と思う。あるいは自分と同じような考えの人が非難されているのを見ると、なんだか自分自身が責められているように感じてしまう。

どうでもいい書き込みを無視できず、結果として苦しんでいるとすれば、まずはそこに「あらゆる期待に応えようとする自分」がいないかどうか、チェックしておく必要があると僕は思います。

たとえ自分とは無関係の書き込みであっても、それを「他者からの自分宛てのメッセージ」として受け止め、そのメッセージに応えようとしてしまう傾向が自分にないか。そういう過剰適応の傾向が自分にあると気づくと、それだけでも、少し楽になれるという人もおられると思います。

人生には「やってはいけないこと」などありません。まずは「スルーしてもしなくても、自分の自由なんだ」ということを、しっかりと自分自身に言い聞かせておくこと。これが、スルー力ということを考える第一歩だろうと思います。

「スルーせずに受け止める」ことは生物の本能

さて、「他人の期待に応えよう」というのは日本人的なメンタリティだと申し上げましたが、これはそもそも、人間という生物の心の、非常に奥深いところにセットされた本能でもあります。

私たちは単細胞生物から進化を重ね、いまでは実に約37兆個の細胞が集合した、非常に複雑な生命体へと進化しました。それらの細胞は、互いにネットワークを作ることによって生命活動を営んでいます。人間の身体というのは、いわば全体がある種の「寄り合い所帯」としての社会を構築している、と見立てることもできるでしょう。

そう考えれば、他者からのメッセージをスルーせずに受け止めること自体は、人間の本能といってもよいぐらい、当たり前のことだということもできるでしょう。細胞の一つ一つが、さまざまなタンパク質を媒介にしながら、互いに助けあって「私」という生命を生きているのと同じように、ネットの書き込みによって勇気付けられたり、傷ついたりしている。

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