江戸東京博物館の館長を務める竹内誠さん。江戸と現代の町並みを比較し、子どもを育む環境において「道」の重要性をお話くださいました。時代の変化とともに変わる家族の形、地域社会の重要性、江戸東京博物館としてできる社会貢献活動などを伺いました。
●戦時中の子どもたち
私は昭和8年生まれです。小学校時代は戦争中でした。東京の下町の尋常小学校に入ったのですが、戦争が始まり呼び名が国民学校となり、終戦の年が6年生でした。戦争の時代の小学校の教育といえば、軍国教育の最中です。いいわけないです。それがまた終戦後一夜にして、すべてが変わってしまうという体験もし、同じ先生なのに言うことややることがクルリと変わってしまう……そんな姿を見ていました。善くも悪くも、「教師も人間なんだな」と感じたものです。
だから、まず、教育には、平和が大前提であって、決して非常事態で教育すべきではないという思いがあります。
戦争中に疎開もしました。東京から田舎にいくと、だいたい「都会っ子」ということでいじめられていました。たとえば、疎開して最初の日は、きれいないい服を着ていきます。しかし、帰りにいじめられてどろんこにされてしまう。私は、そういうのがすぐにわかったから、翌日から一番汚い服を着ていきました。そうすると仲間に入れましたね。
●三位一体の教育力
今と昔を比べると、昔は地域の教育力が強かったと思います。江戸もそうですが、近代、日本は「道」に対する概念が変化するまでは、家庭の教育力、学校の教育力、加えて地域の教育力があった。この3つ、三位一体があって、子ども達が健やかに成長していったと思うのです。まずは、家庭。戦後、特に最近、だんだんいろんなものが崩壊していますが、家庭が少子化になると、家庭=社会ではなくなる。私の子どもの頃は、兄妹が6人いて、6人7人など当たり前。近所中みんな兄弟、姉妹がたくさんいました。
そうすると、まず、家でも社会性がないとやられてしまうのです。ましてや戦争中の食料不足のときなど、卓の真ん中にお皿がぼんと出てきます。10歳も年上の長男から「いただきます」とみんなでわ~っと食卓を囲む。僕より5つ下の末っ子は母親の膝の上でひとつ確保されていますが、ブービーの私はみんなからやられてしまうのです。あの頃、飛行機が大好きで、「あ、飛行機だ!」と言われ、「え?」とそっちを見る。「いないじゃない」と振り向いたときには、もうお皿の中のものはすべてなくなっているんですね(笑)。
次に、地域の教育力。昔は親だけではなく、地域の人にも悪いことをすると叱られたものです。そして必ず遊ぶ場には、ガキ大将のお姉ちゃん、お兄ちゃんがいて、家庭だけでなく、地域で社会性の訓練がなされていた。
たとえば、みんな学校に鉛筆を削るためなど、ナイフを持っていた。しかし、それを絶対にけんかでは使わない。卑怯なことはしない。対等という前提でやるから、喧嘩なので勝ち負けはあるけど、勝った者も絶対におごらない、負けたほうも悔しいけど相手を恨まない。こういうことは、家庭でもちろん教わっていたのでしょうが、地域というものが存在し、育てていたんじゃないかと思います。
現在、少子化で、二人兄妹だとしても男と女であれば喧嘩の仕方も何もかも違います。結局みんな単独で一人っ子みたいなもの。おじいさんおばあさんもいないという環境です。家庭と地域での社会性は少なくなっています。
●道路が、子ども達の遊び場だった
まだ自動車がない時代、道路が子どもの遊び場でした。道路を散らかしたり、物を置きっぱなしにしたりすると、必ず見ているおじさん、おばさんがいます。そして、「きちんと片付けていきなさい」というわけです。また、町内ではみんな道をきれいにしていました。自分の家だけではなく隣の家の人がいなければ隣もみんな。「通る人が、気持ちいいでしょ」と。
両側町といい、道の両側に商店街があった。この真ん中の道が子どもの遊び場だったり、夕方になると縁台をだして将棋をさしていたり、線香花火をやったりと、夕涼みの場、町内の話し合いの場になっていた。そのときにたとえば子ども達が危ないことをしたらそこにいる誰もが見て、叱ってくれる。
子どもにとっては、近所中の人がみんな親であり、親にとっても隣も向かいの子もみんな子どもという概念でした。そこに地域の教育があった。
江戸時代なんて、日本橋にしろ、下町はみんな両側町でした。道の向こうもこっちも同じ町内。ところが今は道路が境目になってしまっている。道の概念が違ってしまいました。
地域の連携という点では、ある意味マイナス面もあったかもしれません。隣組と協調しなければ村八分という言葉もあります。しかし子どもの教育についてみると、戦争中にも関わらず、地域の教育というのは本当によく機能していたと思いますね。
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