今回は、ツリーハウスクリエイターの小林崇さんのお話です。
地上約8m、周囲の山々を見渡しツリーハウスに佇み、コーヒーの香りを楽しむ。ネスカフェゴールドブレンド38代目「違いを楽しむ人」小林崇さんの姿がTVCMで放映されている。
木と森、自然と遊ぶ小林さんは、静岡県で生まれ育った。病気がちで、身体も小さく、いじめられっこだった……と、切ない幼少時代を振り返る。
「ツリーハウスは、自由な自分の生き方の象徴」
36歳でツリーハウスと出合うまで、人間と社会の矛盾と葛藤しながら、少年の心と夢を持ち続けて孤独に生きてきた……そんな「少年時代」を語ってくれました。
●弁当箱には毎日ムカデが入っていた
両親も姉も教員で、祖父は東大の医学部の医局長だったこともある医者でした。親が圧倒的な力を持ち、「東大じゃなければ学校じゃない」と祖父に言われていたらしく、親父はそれに反発し、第二次世界大戦中に予科練に入り戦争を体験しました。戦争から帰ってきたらやることがなく教員になったといいます。教員といえば、給料はさほどよくはなかったけど、当時はまだ「先生様」といわれるくらい特殊な扱いを受けていた時代だったと思います。自分は、親からも「身体が弱い」と言われ、実際に風邪をひくことも多かった。だから、自分でも「弱い子」ということが意識的にありました。同じ世代の子より身体が小さい。体力に自信がないのです。幼少期にこのことは決定的です。
祖父が亡くなった後、伊豆の稲取に移り、母屋に住むようになったのですが、隣にいる祖父の後を継いだ叔父の家はお医者さんだから、全然違う生活をしていました。この伊豆の稲取という漁師町では、半農半漁、観光業をはじめた頃。周囲の子はみな色が黒くてデカい! 本当にわんぱくで、彼らに怯え、小さいながらも周りが気になり、自分がどう思われているのかということを意識しているような子どもでした。また、女の子の遊びが好きで、男の子がするような騎馬戦とか、運動も好きではなかった。
幼稚園くらいでは、身体の大小や、その子の家がお金持ちかどうかといったこともそんなに気にならない。しかし、小学2、3年生くらいになった頃から、「これは大変だ。男という社会の中で生きていくのは大変かもしれない。優劣があるんだ」と感じました。自分の性格もわかってきて、おとなしいし、遊んでいる子ども達の仲間に入れてくれといったりもしない。校庭で遊んでいる子ども達が楽しそうだということはわかる。けど、その中には入れず、遠くで見ているだけ。誰かが声をかけてくれない限り自分からはいけない……。
その頃からいじめられ、中学二年生くらいまではずっといじめられていましたね。
いじめは、今よりもある意味でもっと陰湿。弁当箱に毎日ムカデが入っている。学校に行く前に待ち伏せされ、いじめっ子がいない道を選ばないとまたいじめられる。
今思えば、伊豆の稲取という町に越して小学校にあがった頃から、地元の出じゃなかったこと、それなのに近所で知られた「小林先生の家」という特殊な環境で特別扱いされていた。貧しい町だったため、子ども達もそこでしか発散できなかったのかもしれません。普通より勉強はできるほうだったけど、体育は休む……こんなの、男社会で「なんだよ、あいつ」と思われても仕方がなかったのでしょうね(笑)。
●学校から家に帰るまで……放課後は子ども社会の大切なひと時
いじめられていた時に、唯一思っていたのは、そのことを先生や親に言ってはいけないということ。だから誰にもいじめられたことは話していなかった。大人になってから親に話したら、びっくりしていましたね。でも、いじめられているといっても全員じゃないし、全部ではない。そうじゃない時間もいっぱいある。よくいじめられる仲間がいるけど、その親分は自分のことをかわいがってくれたり。その中の人間関係が昔はきちんとあったのだと思います。
学校が終わってから家に帰るまでの間に、子ども達だけの時間がたくさんあり、それはめくるめく時間で、いじめもすれば、冒険もする。火遊びもすれば、海に行ってサザエ取りの練習もする。泳いじゃいけないところで泳いでみたり、山にあけびを取りにいったり。そのときいじめは起こり、その対象にされていたし、子どもは残忍なのでやられた行為は今でも残忍だと思うこともある。でも、わんぱく大将みたいなのがいて、彼らは僕らを守りもするんですね。
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