「老いと死」におびえる悩み多き52歳が救いを求めて向かった場所。坐禅と写経、そして住職の珠玉の言葉から得られた気づきとは?
なるほど、答えを見出すには現実から目を背けていてはダメということか。
しかし、自分の老いを直視するのはなかなかつらい。だからこそ巷で噂のアンチエイジングや健康法に次々飛びついてしまうのだが、「それは執着なのか?」と問うと、穏やかな笑みを浮かべたご住職。
「私もあと数年で50歳になりますので、そのお気持ちはよくわかります。でも、老いや病気への恐怖にとらわれ、そこに執着しすぎると心が重くなり、行動自体も制限されてしまいます。
そのような自分を苦しめるとらわれや執着を一つひとつ手放して、心を軽くしていくほうがむしろ活力を生み、病気を寄せつけなくなると思うのです」
「死ぬのが怖い」にどう向き合うか
ただ、この歳になると「死」は概念ではなくなり、急に現実味を帯びてくる。「死の恐怖」に対する処方箋はないのだろうか。
「死ぬのが怖い。これは人間誰もが持つ感情です。だからこそ、私たちのような宗教が皆さんの心の拠り所となって、最後まで安心して生きられるように支えていく。それが宗教の本来の役割だと思っています。
たとえ特定の宗教を信仰していなくても、年末にはお寺に除夜の鐘を打ちに行ったり、年始に神社に初詣に行ったり、初日の出を見れば、自然と手を合わせてしまうのではないでしょうか。そうした目に見えないけれど、大切なものを信じる心を育てていけば、心に安心が生まれ、死への恐怖が和らいでいくように思います」(宇野さん)
禅の教えに、「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」という言葉があるとご住職。
「人は何も持たずに生まれ、何も持たずに死んでいく。だから本来、執着すべきものは何もない」という意味だ。
若さや健康への執着も、お金の不安や人間関係のしがらみも、死の恐怖すらも、本来なくていいもの。生まれたときの何もない、無垢な心に戻っていくことこそが、これから目指すべき道なのかもしれないと思えてきた。
ご住職は最後にこんなメッセージを贈ってくれた。
「春の禅語に、『柳緑花紅(やなぎはみどり はなはくれない)』という言葉があります。柳の葉はただただ緑色であるように、花はただただ赤色に咲くように、『自然の姿、ありのままの姿が真実で美しい』という意味です。
たとえば、お寺に飾られている『花手水』を見て、“きれいだな”“美しいな”と感じる。その瞬間は、きっと何も思考が浮かばず、ただ見たままを感じているのではないでしょうか。でも現代人は、感じるよりも先に頭が働いてしまう。それでは生きるのに疲れてしまいます。ただシンプルに見たままを感じましょう。感じたことが、あなたにとっての真実なのですから」
帰り際、再び「花手水」と燃えるような紅葉を見た。「本当にきれいだな……」。しばし、言葉を失った。もうそれだけで充分なのかもしれない、と思えた。
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