「公共の場でおじさんが放尿」「妻は横で杖を振り回す」…田舎出身の18歳女性が「家賃の安さ」だけで選んだ街で見た光景と、そこで得た青春の日々

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筆者は、中・高6年間船通学をしていた。船の所要時間は片道30分。世間の人が船と聞いてイメージするような大きなフェリーではなく、こじんまりとした高速艇だった。

そんな高速艇で移動し、本土に着いてからは路面電車とJRを乗り継ぎ、スムーズなときは片道1時間30分、乗り換え待ちがあれば片道2〜3時間かけて通学していた。

島の住民以外は想像できないかもしれないが、瀬戸内海に浮かぶ牡蠣いかだ(牡蠣を養殖するためのいかだ)を避けられないため、濃霧の日には船が止まり通学できなくなる。「先生、霧で船出んけえ動いたら行くわ」と担任に電話した経験がある人は少ないだろう。

高速艇
最寄りの港から出航していた高速艇。種類ごとに座席タイプが異なるので、お気に入りの席に座れるかどうかが毎日の運勢占いだった(写真:筆者撮影)

こうした霧の心配もなく、船に乗ることもなく、乗り換えで2〜3時間かける必要もなく、山手線に至っては5分も待たずに次の列車が到着する利便性の高さがただただ衝撃的だった。船が出るのは最短30分ごとだったし、路面電車が来ないときは15〜20分ほど来なかった。広島県の中心的役割を果たす広島駅から出るJRの電車ですら、1時間に2本しか来ないような路線だったのだ。

だからこそ、乗り換えが2回あっても、山手線が殺人的に混雑していても、筆者にとって東京での通学は苦ではなかった。そして、上板橋という街は筆者にとって非常に便利だった。なぜか、上板橋の人は上板橋のことを下げて言うことがあるけど(もちろん、好きが滲み出る下げなのだが)、本当に魅力的な、いい街だと思う。

土地勘は無かったけれど、上板橋という街は肌に合い上京から8年間も住み続けることに

結果として、18歳での上京から26歳までの8年間ずっと上板橋に住んでいた。最初に住んだのは北口の常盤台4丁目エリア。新卒で就職してからは南口の上板橋1丁目に住み、当時の恋人と同棲するために再び北口に引っ越し、破局を経て南口から少し歩いた住宅街である桜川に住んでいた。

3回も引っ越したにもかかわらず、常に最寄り駅が上板橋だったのは、街の静かさや暮らしやすさが心底気に入っていたからにほかならない。学校や仕事の帰りに買い物が完結する利便性の高さがある一方で、都会すぎないこの街を心から愛していたのだ。淡々と毎日を営むのに、上板橋という街は最適だった。

上板橋 上板南口銀座
上板南口銀座の入り口。地元密着型の店舗や飲食店、病院などが建ち並ぶ(写真:筆者撮影)
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