病床で弱気になっているとはいえ、夫が自分を頼るだなんて珍しいことだった。そしていつか休憩室で聞いた夫の夢は、今では絢香の夢でもあった。
翌日から、石井さんの指導の下に、絢香のラーメン修業が始まった。石井さんに叱咤激励されながら、出汁の取り方、平ザルの扱い方、チャーシューの作り方を覚えていく。
確かに石井さんの指導は厳しく、熱が入ると修業時代の夫のように頭を引っぱたかれることもあった。でもここで挫けるわけにはいかない。夫と同じように、ひたむきに寸胴と向き合う。
スープを飲んだのちの不敵な笑み
二週間が過ぎたころに、絢香はようやく納得のいくラーメンを作ることができた。石井さんが試食をして、合否を判定する。石井さんはスープをレンゲで一口飲んだのちに、にやりと不敵な笑みを浮かべた。
調理補助と接客は、絢香の弟と、義姉が手伝ってくれることになった。石井さんもしばらくはスーパーバイザーとして店にいてくれる。
絢香はある晩に、再び子供部屋同盟に接続した。万次郎に営業再開の報告をして、改めてお礼を言いたかった。
──いえいえ、お礼も何も。こちらは子供テレビで砂金を得ているものですから。今回のデジタル成敗もなかなか好評で、暗号通貨も……、うっしっし……。
──あ、営業再開するんですか。実はわたくしもラーメン好きのこどおじでしてね。ムラカミの地鶏ラーメン、一度食べてみたいですね。お忍びで食べにいきましょうかね。
──ところで奥様は男性のファッションって気になりますかね? なにせわたくしは一日の大半をチェック柄の黄パジャマで過ごしているものですからね。たいした服を持ってないんですよね。
──久しぶりにサンキに買い物でもいきましょうかね。
翌週の月曜日、午前十一時、絢香は藍色の暖簾を手にして、店外へと出た。街路には燦々とした初夏の日光が降り注いでいる。
店舗に沿って、多くの常連さんが並んでいた。列の前方に上野さんを見つけ、一言二言の会話を交わす。
列の中程には、驚いたことに工藤の姿があった。工藤は絢香に気づくと、困ったような笑みを浮かべて控えめな会釈をした。絢香も同じように、控えめな会釈を返す。
列の最後尾には、見かけないお客さんが立っていた。ジャイアンツのベースボールキャップを目深くかぶり、芥子色のTシャツを着て迷彩柄のハーフパンツを穿いた、小太りの中年男性だった。
万次郎かもしれないと思うも、お忍びなら声をかけるわけにもいかない。
絢香はその中年男性だけは見て見ぬ振りをして、いくらか苦笑したのちに、店頭へと暖簾を掛けた。
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