考えてみれば、夫は何年も修業しているが、自分はただ見ていただけだ。見ていただけの自分に、同じラーメンを作れるわけがない。やっぱりここで閉業するしかないのだろうか──。
そんな折、店に一人のお客さんがやってきた。杖をついたお爺ちゃんだった。
「ごめんね、お爺ちゃん。今は休業中なんですよ」
そう言ってから、そのお爺ちゃんが誰なのか気づいた。
石井の親父さんだった。杖もそうだが、随分と老け込んでいた。白髪が増えて、瞳に生気もない。
「なんだい、リニューアルでもするんかね?」
上野さんと同じように肩を落とす石井の親父さん
親父さんもSNSをやっていないので、まったく事情を知らずにラーメンを食べにきたという。絢香が経緯を話すと、石井の親父さんは、上野さんと同じように肩を落とした。
今度は絢香が事情を訊く番だった。なんでも親父さんは持病の腰痛が悪化したことを機に店主を引退して、今は息子さん夫婦が店を切り盛りしているという。
せっかくなので石井さんを厨房に招いて、スープを見てもらう。寸胴を見ると、親父さんは途端に眼光を鋭くした。
「鶏をこんなやり方でやったらいかんよ。火が強すぎる。これじゃスープが濁っちまう。それに灰汁は取って、脂は取らないのがうちのやり方だ。前に食った感じだと、村上もそうやっとるはずだ」
夫のラーメンは、石井さんのラーメンをもとに作ったものだ。夫の師匠が目の前にいる。絢香はこの機を逃すまいと、石井さんに言う。
「わたしにラーメンの作り方を教えてくれませんか? 夫が帰ってくるまで、わたしがこの店を守らないといけません。でもわたし一人の力では、もうこれ以上どうすることもできないんです……」
そこまで言うと、堰(せき)を切ったように瞳からぼろぼろと涙がこぼれてきた。拭っても拭っても涙は溢れてきて、絢香は大人になってから初めてというほどに声を出して泣いた。
石井さんは目の前でおろおろしたのちに、こちらへハンカチを差し出す。
「女の涙はヤバいな……。いいだろう、わしが指導したる。なにせ面白くもないゲートボールやるくらいで、時間を持て余しとるからな。知ってると思うがわしの指導は厳しいぞ。覚悟はあるか?」
午後──、さっそくこの件を報告しに病院へ向かった。夫はリハビリ中で、歩行器で病院の廊下をゆっくり歩いていた。絢香は夫の隣を、夫の歩調で一緒に歩きながら、石井さんのことを話す。
「まったく親父さんには頭が上がらないな。親父さんが味をみてくれるなら、きっとお客さんに出せるラーメンになる。俺もこっちでリハビリに励むから、その間は店を頼むよ」


















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