これが、例えば職歴など、ほかの「歴」であれば、レベル感の共通認識を持つことそのものが困難であったり、将来的に変わる可能性も大いにありうるので、比較対象の指標としては機能しにくい。
大企業の係長と中小企業の部長、大都市の大手企業の勤め人と地方の中小企業の社長、有名企業の勤め人とインフルエンサーやユーチューバー、海外の無名企業勤務者と日本の官公庁勤務者、などなど、本人またはよほど詳しい情報がない限り、仕事のスペックや人間性、年収などの把握が困難であるということは言うまでもない。したがって、「わかりやすい評価指標や比較対象基準」とは言いがたい面がある。
さらに言うと、ある時期、同じ企業に勤務しており、同じようなスペックや仕事内容、報酬体系であった者たちが、数年後に転職や起業などを経て、いろいろな面で大きく差がつく、なんてこともザラである。「過去のそのときの評価」が一生ものではないという意味においても、やはり「わかりやすい比較指標や比較対象基準」とはなりえないのだ。
「学歴」と「階数」に共通する要素
ちなみに、レベル感が共通認識として価値化されていることは、評価基準や比較対象基準として活用するには(もちろん一部の人たちにとっては、という前提ではあるが)非常に便利なのだ。
ある意味、タワーマンションの住民の「階数マウンティング」も同様だ。外見やライフスタイルだけでは相手の社会的地位や経済的状況を判断できないので、「同じマンションという共通の土俵」において、値段などの価値がわかりやすく、なおかつ、そのマンション内限定ではあるものの、住民の共通認識として持たれている「階数」という指標によってレッテル張りをする浅はかな行為にいそしんでいる、という構図なのだろう。はたから見れば、どんぐりの背比べ以上でも以下でもない。
そもそも論として、他人との比較においてでしか自分の価値を判断できないこと自体に危機感を持つべきなのだが、それでも他人と比較したがるというのは一種のクセや習慣のようなものなのだろう。



















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