これを読んでいるあなたもお金教に入信しているはずです。「いやいや、そんなことありません」とおっしゃるかもしれませんが、ちょっと考えてみてください。
「今、お母さんがそばにいなくても大丈夫ですか?」
そう聞くと、大人はたいてい「大丈夫」と答えるはずです。
「お金を語れない」は僧侶として失格
では、次の質問はどうでしょう。
「今、お金がなくても大丈夫ですか?」
この質問に「大丈夫」と答えられる大人はほとんどいないはずです。自分の預金通帳を見て、数字が増えれば安心し、減ったら不安になる。心理的安全性をお金に求めているからです。
これは立派なお金教の信者です。
お金は現代のこの社会ではなくてはならないものですし、避けようと思っても現実的に避けることはできません。それは私たち僧も同じです。仏教で心の修行をしていても、社会で生きていく上では、お金から逃れることはできません。
この「生きていく上で逃れられないもの」から目を背けるというのは、成熟した大人の態度ではありません。ですから私は、お金の悩みに答え、お金の話をしています。
お金から逃れることができないのに、あたかもお金とは関係ないようなフリをしている僧もいますが、私はお坊さんとしては失格だと思います。
お坊さんがお金の話を嫌がるのは、人々から「いやらしい」と言われるからです。私も言われています。でも、そのような反応を恐れるのは、お金に関して中途半端な理解をしているからです。



















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