「受け入れるべき。ただし、かつてのように」…五木寛之が看破した【外国人労働者問題】の本当の論点

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考えるヒントは、「日本に流れ着いた多様な文化が、この国や風土の中でどのように育ち、根付いていったか」というプロセスを見ることです。

日本人は極めて強い消化力を持っています。ここで言う「消化力」とは、海外から貪欲に文化や知識を学び取り、それを自分たちの国や風土に合うように変えていく力のことです。

たとえば、同じ仏教でも、日本の仏教は、ブッダの仏教(原始仏教)とも中国の仏教とも異なっています。長い年月をかけて独自の発展を遂げてきたからです。

異国の文化の消化は、日本にかぎったことではなく、世界中どこの国も行っています。

ローマはギリシャの文化を、ヨーロッパ諸国はギリシャやローマの文化をそれぞれに消化し、自分たちの文化を築いてきました。キリスト教も同じで、イギリスでは英国国教会が生まれ、ロシアにはロシア正教会があります。

私は常々、異文化の消化の仕方にその国らしさが見えるんじゃないか、と考えてきました。ただ、そうは言っても、「日本的な消化とはこういうことだ」とはっきりとは断言できないのが、正直なところです。

ひとくくりにできない「日本人」

『日本人のこころ1』(講談社、のちに筑摩書房で文庫化)という本の中で、私は京都についてこう書きました。

「まるで、玉葱(たまねぎ)の皮をむくように、京都とはこういう町だというふうに考えると、しばらくしてその一枚下に、いやそうでもない、やはりこうかもしれない、というのがでてくる。

そう思っていると、さらにそのまた一枚下に新しい京都の顔が見えてくる。なんともいえない、奥深い、そして謎をたくさん秘めた町だという感じがする」

京都というひとつの町だけでもこの有様ですから、日本という国全体になれば、さらにつかみどころがありません。

日本各地を旅して回り、いくつかの土地では何年か暮らしてみた実感として、たしかに言えることがあるとすれば、それは「日本人にもいろいろいるなぁ」ということです。

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