というのも「天明の大飢饉」が起きたことで、食糧を求めて、東北方面から江戸に人々が殺到。宿もなければ職もなく、人別帳から除かれた「無宿人」が増加。食い詰めた挙句に犯罪に走る者もおのずと多くなっていた。
そこで平蔵は寛政元(1789)年に「無宿人」の更生施設として「人足寄場」の建設を、老中の松平定信に提案。石川島に「人足寄場」を設置すると、無宿人や浮浪者の更生をはかり、職業訓練を通じて社会復帰を目指した。
もちろん、一度ドロップアウトした人を更生させるのは簡単なことではないが、平蔵のこんな言葉が、更生プロジェクトの根底にあった。
「悪党にても人」
役人からは恨まれた
父親譲りで理財に長けていた平蔵。幕府から出してもらった3000両を元手に銭相場で儲けたことから、役人たちには疎まれたようだ。『よしの冊子』には「総じて役人は平蔵を憎んでいる」とさえある。松平定信もまた平蔵の能力は評価しながらも、山師のようなやり方で金を稼いだことには、嫌悪感を抱いたようだ。
だが、平蔵はそうして得た利益を人足寄場の維持費にあてている。「世の人は我を何とも言わばいえ我がなす事は我のみぞ知る」と言った坂本龍馬と似た境地にいたことだろう。
長きにわたり火付盗賊改を務めた平蔵は、寛政7(1795)年に51歳で病没。強く出世を望みながらも、町奉行になることは叶わなかったが、犯罪者更生の先駆者として歴史に名を刻むこととなった。
【参考文献】
高橋義夫『火付盗賊改 鬼と呼ばれた江戸の「特別捜査官」』 (中公新書)
丹野顯『「火附盗賊改」の正体 ――幕府と盗賊の三百年戦争』(集英社新書)
藤田覚『松平定信-政治改革に挑んだ老中』 (中公新書)
山本博文、遠山美都男、関幸彦『人事の日本史』(朝日新書)
山本博文『よしの冊子』にみる江戸役人の評判 武士の人事評価』(新人物文庫)
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