鬼平の意外な実像 「長谷川平蔵」が役人からは嫌われて、庶民からは喝采を浴びたワケ

✎ 1〜 ✎ 32 ✎ 33 ✎ 34 ✎ 35
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

大河ドラマ「べらぼう」では、女性にめっぽう弱いお坊ちゃんキャラとして描かれているが、実際も放蕩息子だった。親も息子の将来をさぞ心配したことだろう。

男前が多かった「進物番」から「火付盗賊改」へ

平蔵の父・宣雄は明和9(1772)年2月に起きた「明和の大火」で、火付盗賊改加役として活躍。放火犯を捕まえるという功績を残したことで、京都町奉行に栄転することになった。

すでにその頃、妻子がいた平蔵は、父とともに家族で京都に赴いている。だが、翌年6月に父が急死。平蔵は再び江戸に戻り、29歳で家督を相続している。「平蔵」という通称を使ったのは、これ以降のことである。

小普請入りとなった平蔵は、安永3(1774)年に父と同じく、西の丸御書院番の番士となった。江戸に戻ってもしばらく遊び癖が直らなかったようだが、この番入りを機に放蕩はおさまったとされている。翌年に進物番(しんもつばん)の役に就いている。

時代としては、平蔵が家督をつぐ前年、明和9(1772)年に田沼意次が老中となっている。田沼時代の本格的な幕開けとともに、平蔵は新たな人生をスタートさせたといってもよいだろう。

大河ドラマ「べらぼう」では、進物番を務める平蔵が自身の職場環境について「人の噂や悪口ばかり」と意次に愚痴をこぼし「西の丸を出たい」と訴えるシーンがあった。何でも「親の七光りだ」とバカにされたり、小さなミスを指摘されたりする毎日に、平蔵はついにキレてしまい、こう言ったのだという。

「てめえら、そんなに進物番になりたきゃ、男前に生まれ直してきやがれ」

次ページはこちら
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事