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「女を追いかけていくらしい」朝ドラ・やなせたかし、上京して副業で稼ぐもユウウツな訳

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  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
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なかでも、三越劇場のポスターを描く仕事が、やなせのお気に入りだったようだ。その一方で、会社以外での絵を描く仕事も積極的に引き受けた。マンガの投書にも積極的に挑み、何度か入賞も果たしている。

収入は順調に伸びるも「自分はまだ無名」と焦る日々

副業に励んだ結果、部長よりも収入が多かったというから、大したものだ。弁当も部長よりも高いものを注文して食べるようにしていた。その理由をこんなふうに語っている。

「高い弁当をわざと喰べたりしていたのは、権威嫌いからきていて、平社員だからといってへりくだることはない、人間はみなおなじだ、部下が部長よりもいいものを喰べたってそれは自由意志で、カツ丼であろうが、ザルソバであろうが、天丼であろうが、それは好みの問題だから、階級差をつけるべきではない。若い方が老人よりカロリーを要求するのはあたりまえである」

なかなか尖った人材だったようだが、自身でも部下としての自分について「自由主義で、極端に束縛されるのをいやがるから、非常に使いにくい」と客観視している。

それだけ我を通しても、職場で受け入れられているならば問題なさそうだが、やなせの自由を求め続ける精神は、サラリーマン生活と相性があまりに悪かった。勤務して年月を重ねるにつれて「フリーランスになりたい」という思いは高まるばかりだった。

当時、朝日新聞は清水崑、毎日新聞は横山隆一、読売新聞は近藤日出造……といった具合に新聞紙面で漫画家たちが大活躍していた。創刊ラッシュを迎えた雑誌の誌面でも、漫画家たちは重宝されており、やなせは焦りを募らせるばかりだった。

「三十歳を越えても、ぼくは完全に無名だった。まだ投書漫画家でしかなかった」

小島功、関根義人、金子泰三らが結成した「独立漫画派」に、やなせも参加。会社帰りには毎日のように銀座の事務所に立ち寄って、マンガの仕事を受けては描きまくった。

そして1953年にやなせは独り立ちすることを決意する。上京して6年目、34歳にしての大きな挑戦だ。

だが、独立してまもなくして、やなせは大きな壁にぶつかることとなる。

(つづく)

【参考文献】
やなせたかし『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)
やなせたかし『ボクと、正義と、アンパンマン なんのために生まれて、なにをして生きるのか』(PHP研究所)
やなせたかし『何のために生まれてきたの?』(PHP研究所)
やなせたかし『アンパンマンの遺書』 (岩波現代文庫)
梯久美子『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』 (文春文庫)
真山知幸『天才を育てた親はどんな言葉をかけていたのか?』(サンマーク出版)

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