「女を追いかけていくらしい」朝ドラ・やなせたかし、上京して副業で稼ぐもユウウツな訳

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そんななか、編集委員で『月刊高知』の発行責任者である中島及は「柳瀬くんは志を立てて東京へ行くのだから、将来かならず社のために役に立ってくれる」と言ってかばったという。

また同じ編集部で、東京取材ではともにおでんを食べて食中毒となった、同僚の品原淳次郎も、気持ちよく送り出してくれた。やなせが関わった号として最後になる『月刊高知』の1947年6月号の編集後記では、こんなエールを送っている。

「人はそれぞれの仕事を示す場所を一生かかって探さねばならない。本当に自分を生かす仕事のためには。彼は今それを見出したのだから喜んで送り出そう」

やなせも同じ号の編集後記で「もう一度出発点にかえり振り出しからやり直してみるつもりです」と新たな門出への決意を述べている。

高知新聞社で働いた1年は、公私ともにやなせの人生に重要な転機をもたらしたといえよう。

子供部屋での一風変わった新婚生活がスタート

暢の上京から半年が経った頃にやなせも東京に行き、2人は新生活をスタートさせる。やなせは、田辺製薬時代の仲間が立ち上げた、図案の会社に勤務することとなった。勤務地は日本橋である。

一方、暢は社会党代議士の秘書として働きながら、友人夫妻が住む一軒家を間借りしていた。友人には生まれたばかりの女の子と3歳の男の子がいた。夫妻は女の赤ちゃんと一緒の部屋で寝ていたので、男の子が寝る子供部屋のほうで暢も一緒に暮らすことになったのだ。男の子の世話をする代わりに、家賃は無料にしてもらったという。

その子供部屋に、やなせも転がり込んで来たのだから、なかなかカオスである。ちょっと奇妙な新婚生活を、こんなふうに振り返っている。

「新婚なのに、子供を入浴させたり、トイレに連れていったりしなくてはならない。でも、無料だから文句はいえない」

しばらくすると、やなせは日本橋三越の宣伝部の入社試験を受けて合格。版下図案が描けず前の会社ではあまり活躍できなかったやなせだったが、ここでは仕事の内容と自分のスキルがマッチしたようだ。

「宣伝部といっても、はじめのうちはさしたる仕事もなかった。ぼくは店内装飾、ショウウィンドウとか、売場の看板とかのデザインをしたが、時には二百号ぐらいの大きな絵を直接パネルに描くこともあった。絵を描いていると楽しくて、やっぱりこの仕事が好きなんだなと思った」

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