《突如斬られたのに悪人扱い》 佐野政言に斬られた田沼意知と似たあの人物

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そんな上野介が老境を迎えた61歳の時、後世に伝わる大事件に巻き込まれて、凶刃に倒れることになった。

金銭トラブルの背景に「インフレ説」も

2人の間に何があったのか。「赤穂事件」を記した『江赤見聞記(こうせきけんもんき)』によると、以前、接待役を務めた担当者が、浅野内匠頭に「上野介は欲の深い人だから進物を贈ったほうがいい」とアドバイス。それに対して、内匠頭は「お役目が無事終わってからならまだしも、前もって何度も贈るのはどうかと思う」と、贈り物に消極的な姿勢を見せている。

こんなやりとりからも、前述したように、2人の間にはワイロを巡ってトラブルがあったのではないかという見方が強い。

ただ、高家が勅使饗応役の大名に指導する際には、相応の謝礼を受けることが黙認されていた。そして上野介は高い位階を得ていたものの、禄高は4200石に過ぎず、財政事情は苦しかったようだ。出費を削減するため、大老の酒井忠清に「1年に2度も京都への使者を命じられることのないようにしてほしい」と申し入れを試みたという。前述したように、生涯に24回も上洛しているが、費用は持ち出しだった。

内匠頭は謝礼として上野介に、大判金1枚、巻絹1台、鰹節1連を贈ったとされるが、懐が苦しい上野介からすれば、それでは不足だと感じた可能性がある。また、もうひとつ「すれ違いの要因になったのではないか」と指摘されているのが、物価の推移である。

実は赤穂事件から遡ること18年、内匠頭は天和3(1683)年に初めて勅使饗応役を務めており、このときに指南役として付いたのも、上野介だった。勅使一行は随員も入れると数百人に達したが、内匠頭は最初の勅使饗応役を無事、務め上げている。このときには、内匠頭と上野介が揉めた形跡もない。

つまり、内匠頭が勅使饗応役を務めるのは2度目となるわけだが、この間、インフレによって18年前の3倍近くに物価が高騰している。そのことを理解せず、予算不足を上野介に指摘されたのかもしれない。

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