庶民に嫌われていた田沼親子に立ち向かえば、同じように礼賛されるに違いない――。『仮名手本忠臣蔵』への反響の大きさが、政言にそう思わせたのかもしれない。そこまでいかずとも、暗殺計画を実行する後押しになった可能性はあるだろう。だが、この赤穂事件も真相がよくわかっていない。
幕府の儀式や典礼を司った吉良上野介
江戸時代中期の元禄14(1701)年、播州赤穂藩の藩主・浅野内匠頭が勅使饗応役を拝命。旗本の吉良上野介が指南役を務めることになった。
だが、朝廷からの使者を迎え、まさに大切な儀式が挙行される直前に、内匠頭が上野介を斬りつけた。一説には、内匠頭が上野介からワイロを求められて断ったことで、2人はトラブルになったともいわれている。
裁きの結果、上野介は無罪で何の罪も問われず、内匠頭だけが切腹。藩まで取り潰しにされてしまう。これに激怒した内匠頭の家臣たちは、亡き主君のために上野介に復讐するべく立ち上がり、吉良邸に討ち入りを果たす。上野介はその首を討ち取られた。47人の浪士には切腹が命じられている。
第5代将軍・徳川綱吉の治世で起きたこの事件については、浄瑠璃や歌舞伎などで『忠臣蔵』として物語化され、後世でもよく知られている。物語上は、すっかり悪者とされた吉良上野介はどんな人物だったのか。
吉良上野介は、室町幕府の将軍である足利一族に流れを汲んだ名門に生まれる。「足利家が途絶えたら将軍家になる」とまで言われたほど由緒正しい家柄で、上野介の曾祖父・義定(よしさだ)は、徳川家康の従兄弟にあたる。
義定の息子・義弥(よしみつ)の代から、吉良家は、幕府の儀式や典礼を司る高家職を務めてきた。そんな吉良家の跡取りとして、上野介は幼い頃から吉良流礼法をはじめとする礼儀作法を厳しく指導された。13歳にして4代将軍の徳川家綱に拝謁し、17歳で従四位下に叙されている。
そして18歳の時、米沢藩主・上杉綱勝の妹・富子と結婚し、上杉家と縁戚関係になった。28歳のときに父・義冬を亡くすと上野介が後を継ぎ、43歳で高家肝煎(きもいり:最高責任者)に就任。これまでにもまして職務に励むようになったらしい。幕府の使者として上洛した回数は、実に24回にも達している。
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