まさに「挫折と栄光」の人間ドラマ…昭和のプロ野球《偉大な4つの記録》達成の裏側をプレイバック

ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

"弱小球団"広島は、43年に地元の東洋工業がスポンサーになり広島東洋カープとなってから経営が安定。50年には球団創設以来初のセ・リーグ優勝を果たす。首位打者を獲得した山本はMVPも獲得。

この年、一塁から三塁にコンバートされた衣笠も優勝に貢献するが、ライバル山本は「ミスター広島」と呼ばれるようになった。捕手上がりだが俊足だった衣笠は翌51年、31盗塁で盗塁王を獲得する。

ライバルの山本が、本塁打王4回、打点王3回、首位打者1回、MVP2回とセ・リーグ最強打者にのし上がるなか、衣笠に主要打撃タイトルはなく、打率3割もマークしたことがなかった。しかしコーチ兼任となった59年、衣笠は打率3割2分9厘(3位)、102打点で打点王を獲得。MVPにも選ばれた。

「世渡りが下手だから」

この時期から衣笠は「連続試合出場」で注目されるようになる。昭和45年10月18日の巨人戦ダブルヘッダーの第2戦に欠場して以来、引退まで1度も試合を休まなかった。

永久保存版 嗚呼、青春の昭和プロ野球 心震えた名場面とその舞台裏
『永久保存版 嗚呼、青春の昭和プロ野球 心震えた名場面とその舞台裏』(宝島社)。書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします

55年には元南海、飯田徳治がもつ「1246試合」の連続試合出場記録を抜き「鉄人」という称号が付いた。

MLBの記録はこれも「鉄人」と呼ばれたルー・ゲーリッグの「2130試合」。衣笠は死球で骨折しても試合に出続け、62年6月13日の中日戦でゲーリッグの記録を更新する。

中曽根康弘首相は、衣笠にプロ野球では王貞治以来2人目の「国民栄誉賞」を贈った。40歳、満身創痍の衣笠は、連続試合出場を継続したままこの年限りで引退した。

衣笠の「2215試合連続出場」記録は1996年、MLBオリオールズのカル・リプケンJr.に抜かれている。

ONに匹敵する名コンビといわれた衣笠・山本だが、山本が2期10年も監督を務めたのに対し、衣笠は1度もなし。本人は「世渡りが下手だったから」としか語らなかった。

衣笠監督待望論があるなか、「鉄人」は平成30年、71 歳で逝去した。

ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事