まさに「挫折と栄光」の人間ドラマ…昭和のプロ野球《偉大な4つの記録》達成の裏側をプレイバック

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才能を見出されなかった不運を気の毒がる声もあったが、バース自身は「僕は何度もチャンスを与えられたのに、期待に応えられなかった」と語っていた。

「バックスクリーン3連発」と2年連続の三冠王

昭和58年に阪神に入団。一般的には彼の名は日本語表記では「バス(BASS)」となるが、球団サイドが彼が不振に陥ったときに、「阪神バスがパンク」「バス横転」などとメディアに書かれることを恐れて「バース」にしたという。

同年35本塁打、83打点、打率2割8分8厘、59年は27本、73打点、打率3割2分6厘と合格点の成績だったが球団には「物足りなさ」を感じる幹部もいた。

しかし、60年にバースは54本、134打点、打率3割5分で三冠王を獲得。阪神の38年ぶりのリーグ優勝の原動力となる。4月17日には甲子園で巨人の槙原寛己からバース、掛布雅之、岡田彰布が球史に残る「バックスクリーン3連発」を記録している。

バースのキャリアハイは翌61年だった。掛布が死球で長期欠場したこともあり、チームは5割ちょうどの3位に終わったが、バースはNPB史上最高打率となる3割8分9厘を記録。47本、109打点で2年連続の三冠王を獲得した。四球82、敬遠18も最多。投手から勝負を避けられるなか、限られた打席に集中したのだ。

バースは広角打法で高打率をマークしたが、パワーや技術だけでなく選球眼も抜群だったのだ。日本の野球ファンに強烈な印象を残したバースは、令和5年にアレックス・ラミレスとともに外国人枠で移籍した選手としては初の野球殿堂入りを果たした。

【昭和62年:衣笠祥雄「2131試合連続出場」の世界新記録】

高校時代は強打の捕手として春夏の甲子園に出場した衣笠祥雄。しかし入団した広島には田中尊という正捕手がいた。白石勝巳監督は、衣笠の打力を生かすために一塁にコンバート。衣笠は43年、21本塁打を打ち正一塁手になった。

翌年、ドラフト1位で同学年の山本浩二が入団。法政大学時代、田淵幸一、富田勝と「法政三羽烏」といわれた山本はいきなり外野のレギュラーとなる。叩き上げの衣笠とエリートの山本――2人は互いをライバルと認め合った。

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