村上頌樹が振り返る「669球を投げぬいた」甲子園 大阪桐蔭との一戦が「虎のエース」を変えた
「大阪桐蔭」ではなく「智弁学園」を選んだ理由
── 兵庫県の淡路島出身で、中学時代は硬式クラブチームのアイランドホークスでプレー。奈良の智弁学園へ進んだ理由は?
とにかく甲子園に出たい気持ちが強かったんです。兵庫や大阪だと学校数も多くて、厳しいというのが正直ありました。それと智弁OBで元阪神の庄田隆弘さんが中学のチームの指導をされていて、そこから小坂(将商)監督も見にきてくれるようになり、決めました。
── 甲子園への憧れはいつ頃からですか?
小学生の頃からずっとテレビで見ていて、特に夢中になったのは藤浪(晋太郎/現・メッツ)さんたちが春夏連覇を達成した時の大阪桐蔭。中学2年の時です。
── 大阪桐蔭に行きたいとは?
それはならなかったです。甲子園にも出たいし、エースにもなりたい。現実的に考えて、大阪桐蔭よりも……となったんだと思います。
── 当時の智弁学園には2つ上に岡本和真選手(巨人)、1つ上に廣岡大志選手(オリックス)ら、錚々たるメンバーが揃っていました。
だから高校野球のスタートは「すごいな」と圧倒されたところから始まりました。


















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