まさに「挫折と栄光」の人間ドラマ…昭和のプロ野球《偉大な4つの記録》達成の裏側をプレイバック
47年、福本は10年前にドジャースのモーリー・ウィルスが記録したシーズン104盗塁のMLB記録に挑戦した。7月、盗塁数が「80」を超えると、球団は福本の足に「1億円」の保険をかけた。
中曽根政権からの「国民栄誉賞」を辞退
9月22日、本拠地・西宮球場での近鉄戦、第1打席に四球で出塁すると、スタンドに向かってVサインで盗塁予告をし、執拗な牽制をかいくぐってウィルスに並ぶ104盗塁を記録。さらに26日の西宮球場の南海戦の3回、ついにMLB記録を抜く105盗塁を達成した。
南海の投手は新人の野崎恒男、捕手は監督兼任の野村克也だった。野崎は6度も牽制球を投げたが、それをかいくぐっての盗塁だった。海の向こうのウィルスは「抜くな」とプレッシャーをかけていた。この試合で阪急の5度目のリーグ優勝が決定。この年、福本はMVPを受賞する。「足」だけのMVPも史上初だった。
11年後の昭和58年6月3日の西武戦の9回、福本は三盗に成功してMLBのルー・ブロックが持つ通算938盗塁のMLB記録を抜く939盗塁を達成した。
福本の盗塁記録は、王貞治の「756本塁打」に続く快挙だと、時の中曽根康弘政権は国民栄誉賞を授与すると決めたが、福本は「そんなんもろたら、立ちションもでけへんようになる」と言って、辞退したとされる。
気さくな福本は堅苦しい「賞」は似合わないと思ったのだろう。福本は今も関西のテレビで軽妙なしゃべりを続けている。
近鉄バファローズは昭和25年にパ・リーグに加盟した。当初は近鉄沿線の伊勢志摩の名産「真珠」から「パールス」という愛称だったが、33年に130試合29勝97敗4分、勝率2割3分8厘と史上最低勝率を記録。「玉砕ばかりのパールス」と揶揄された。
34年、「猛牛」と呼ばれた巨人の名二塁手・千葉茂を監督として招聘したのを機に「バファロー」(37年からバファローズに)と愛称を変えたが、チーム状況はよくならなかった。
鈴木啓示は兵庫・育英高時代に春の甲子園に出場。高校屈指の左腕として知られ、40年の第1回ドラフトで近鉄から2位指名を受けて入団。1年目から10勝を挙げ、以後、55年まで15年連続で2桁勝利。44年には24勝を記録し、パ・リーグを代表するエースにのし上がった。広い肩幅から繰り出す速球は圧倒的な威力があった。