老朽化した建物に居座ってそんな自由奔放な生活を送る寮生たちを、大学がよく思わなかったのは当然だったのだろう。
1996年、すでに寮生たちに廃寮を通告していた大学は、寮内の劇場で起きたボヤ騒ぎを理由に、ついに寮への電気とガスの供給を停止した。
首のまわりに洗剤を塗っておく
インフラが遮断されたことで、大学側の狙い通り退寮者は続出した。しかし、気骨のある寮生たちは、発電機とガスコンロを持ち込んで寮生活を続けた。齋藤さんもその1人だった。
「俺は駒場寮での生活が楽しくて残ることにしたんだ。月に1500円を払えば発電機の電気が使えて不便はなかったし、いまさら引っ越しをして、東京の賃貸の何万円もする家賃を払いたくもなかったからね」
齋藤さんは引き続き自由な駒場寮生活を満喫していたが、このころから大学と寮生との争いは激化していく。
「自治会が寮の裏手にある建物のコンセントから電気を拝借していたんだけど、教務課の連中が深夜に電気ケーブルを切断して持ち去ってさ。それに怒った一部の寮生が決起して教務課に乱入するなんてこともあった。教務課とはしょっちゅう揉めていたね。
そのうち、退寮しない寮生に痺れを切らした大学が、警備会社を使うようになったんだよ。200人ほどの警備員が軍隊みたいに隊列を組んで寮の敷地に入ってくるんだけど、事前にその情報を得ていた俺たちは寮の前にバリケードをつくった。なにかとそのバリケードをはさんでにらみ合いをしていたね。
当時、東大は日本中の大学で起きていた『自治寮つぶし』の最先端だったんだ。1991年の一方的な廃寮通告以降、寮生を追い出すためにいろんな実験的手段をとっていたよ」

齋藤さんが駒場寮闘争に熱心に参加していたのは、前期課程の2年生までだったという。
2度留年した後、本郷キャンパスにある文学部に進学。キャンパスが駒場寮から遠くなったことから、寮の部屋はセカンドハウスとして維持しつつ、本郷キャンパスの近くにアパートを借りて移り住んだ。四畳一間、風呂なし、トイレ共同、月の家賃2万8000円の物件だった。

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