国交樹立から5年後…その"記念品"として贈られた「七支刀」が示す、ヤマト王権と百済の蜜月関係

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共通するのが玉類と鏡である。

『古事記』には辺津(へつ)鏡と沖津(おきつ)鏡が出石に納められたとあり、天然の良港であるラグーンがあった宮津湾にある籠(この)神社にも、これらと類似した息津(おきつ)鏡と辺津鏡が納められている。

籠神社の息津鏡は前漢時代、辺津鏡は後漢時代前期のもので、1世紀頃にもたらされたものと考えられる。ここから但馬に納められた神宝も同時期にもたらされたものと推測される。

朝鮮半島南東部の渡来グループは出雲だけでなく、タニハ(丹後半島の周辺地域の古称)にも移住して独自の勢力を醸成していった。古代の朝鮮半島は小国の連合体だったが、出雲のスサノオと但馬のアメノヒボコは、辰韓(新羅)内の異なる小国から訪れた別系統のグループだったのではないだろうか。

歴史学者の黛弘道氏は、アメノヒボコ伝承地と兵主(ひょうず)神社の分布地が重なることに注目した。兵主神は『史記』に登場する中国の武神で、山東半島で信仰された。

山東半島から楽浪・帯方郡に移住したグループは、4世紀初頭に2郡が高句麗によって滅ぼされた際に辰韓に逃れ、さらに日本に渡ったと考えられる。この渡来時期は5世紀初頭の15代応神天皇の時代としている。

この山東半島のグループの移動を、黄巾の乱による混乱によって楽浪郡が公孫氏によって実質的に独立した2世紀末とする説もある。公孫氏による侵攻から逃れた製鉄グループが辰韓地域を離れ、やがて但馬に渡来したとするものだ。

これらのことからアメノヒボコは渡来する辰韓(新羅)系の人々を仮託したものと考えられる。タニハの勢力地である但馬には断続的に辰韓(新羅)から渡来系の人々が訪れたことは間違いない。

その最初期の渡来グループがやってきたのが1世紀であり、そこから断続的に鉄やガラス加工の技術者集団が渡来、5世紀になると新羅系コミュニティを但馬に構築したといえるだろう。

「空白の4世紀」を伝える貴重な史料

中国王朝による記録が途絶えた空白の4世紀だが、この期間の貴重な史料が奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮に所蔵される七支刀(しちしとう)に記された銘文である。

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