国交樹立から5年後…その"記念品"として贈られた「七支刀」が示す、ヤマト王権と百済の蜜月関係

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この刀には「泰和4年(369)につくられ、百済王が倭王に贈った」ことが記されている。この銘文と符合するように『古事記』には応神天皇の時代に「百済の国主の照古(しょうこ)王が雄馬一疋・雌馬一疋、横刀、大鏡を献上した」とある。ここで記された照古王とは、近肖古(きんしょうこ)王(在位期間346〜375年)のことである。

また『日本書紀』神功(じんぐう)皇后紀には、百済から「七枝刀」が贈られた記述がある。

神功皇后は14代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で、皇子の15代応神天皇が誕生・成長するまで摂政として実質的に天皇として君臨した人物として描かれている。

ただし、そのエピソードには神話的な要素が多く、創作された人物とするのが一般的だ。神功皇后紀の記載については創作か史実かの判断を慎重に行う必要がある。

また『日本書紀』神功皇后紀の注釈には、『魏志』倭人伝に景初3年(239)に倭女王(卑弥呼)が魏に遣使したことがわざわざ記されていることから、編纂者が神功皇后=卑弥呼と考えていたと思われる。

そのため、神功皇后紀の年代は、十干十二支(十干と十二支を組み合わせた年代法で、60年で一巡する)の二巡分(120年)、あるいは三巡分(180年)を加えて考慮する必要がある。以降、神功皇后条の年代は基本的に120年を加算した年代で示す。

中立地帯・伽耶で行われたヤマト王権と百済の接触

ヤマト王権と百済の友好関係がいつはじまったかについては諸説あるが、『日本書紀』神功皇后紀には、甲子年(364年)に伽耶の卓淳(とくじゅん)でヤマト王権と百済の外交交渉が行われたことが記されている。

ヤマト王権側は斯摩宿禰(しまのすくね)、百済側は久氐(くてい)・彌州流(みつる)・莫古(まくこ)の3人を派遣した。ここで2国の国交が結ばれ、斯摩宿禰は部下の爾波移(にはや)と卓淳人の過古(かこ)を百済へ派遣し、鉄鋌40枚などが近肖古王から贈られたとある。

この翌年には、新羅の遣使とともに百済の久氐がヤマト王権に朝貢したという。

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