国交樹立から5年後…その"記念品"として贈られた「七支刀」が示す、ヤマト王権と百済の蜜月関係
鉄鋌とは、鉄の延べ板のことで、加工するための鉄素材としての用途以外にも貨幣のような役割で流通していた。
鉄鋌40枚は約50キロあり、短甲(たんこう/古代の鎧の一種)を25領も製作できる量である。2007年には弾琴台土城(忠清北道忠州市)で、百済時代の鉄鋌40枚が束で発見されている。
「卓淳」は金官から西へ約20キロのところにある馬山湾一帯を指す。『日本書紀』では6世紀の26代継体天皇や29代欽明天皇の時代の記述に、「任那(みまな)」として南加羅(金官)・喙已吞(とくことん)・卓淳が登場する。
『日本書紀』によると任那は「任那日本府」と呼ばれる役所が置かれた地域で、ヤマト王権と関係が深い地だった。ヤマト王権と百済の両国の勢力が重なり合う伽耶地域、いわば中立地帯で外交交渉が行われたことになる。
ヤマト王権に朝貢を誓った百済王
『日本書紀』神功皇后紀には、百済との国交樹立後に活発に両国を行き来する千熊長彦(ちくまながひこ)という人物が登場する。
『日本書紀』神功皇后紀では367年に百済王がヤマト王権から派遣された千熊長彦に朝貢を誓うことが記されており、これが両国の国交樹立の年と考えられる。
ちなみに斯麻宿禰と千熊長彦を「百済記」に登場する職麻那那加比跪(チクマナカヒコ)の当て字として、斯麻宿禰と千熊長彦を同一人物とする説がある。
372年、千熊長彦は百済官吏の久氐とともに帰国し、「七枝刀(七支刀)」一口、「七子鏡」一面をはじめ種々の宝物を献上したとある。
まとめると、364年にヤマト王権に近い関係にある伽耶の卓淳で外交交渉が行われ、367年に国交が樹立。これを記念して369年に七支刀が製作され、372年に日本にもたらされたことになる。
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