「UWFは俺にとって最初の青春だった」…前田日明が振り返る"猪木が来なかったあの日"の決意

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つまり彼らの人生を巻き込んじゃったのは俺の責任だからなんとかしなくちゃいけない。その思いがあの頃のすべてなんですよ」

佐山との関係をおかしくしたUWF

当時の前田は「俺はみんなの生活を守らなきゃいけないっていうことばかり考えていた」という。そうして「試合は月1が限界」と唱える"競技志向"の佐山聡と「経営を好転させるために興行数を増やすべき」という前田らが対立。そして、ここでも前田は社員らの想いを受け止めた格好で、リング上においても佐山と対立した。

「佐山さんも今は病気をしていて、俺もニュースを見たりして、いい治療法が見つかったとか、そういう状況を見守っていたりはしていますよ。いまさら過去のことをどうこう言うつもりもない。

ただね、俺は猪木さんといくら関係が悪い時でも『猪木』なんて呼び捨てにしたことは1回もないよ。それを佐山さんは猪木さんに向かって『お前、ぶち殺すぞ、こら!』とか言った。『ずっと猪木さんを尊敬していました』ってどの口でそんなことが言えるんだよって話じゃん。

あとはあんなにプロレスに世話になっておきながらプロレスをボロクソに言って、それなのにまたプロレスに帰ってきてさ、はっきり言って無礼千万だよ。

佐山さんは頭の回転がとても速い人だから、俺とそういう口論になった時に返す言葉がないってことをわかっていて、だから俺とは距離を取っていて防御線を張ってるんだよ。

俺はなんだかんだ言ってね、あのまま大阪にいたらどうなっていたかわからないような小僧を世に引っ張り出してくれて、こうやってプロレスラーにしてくれた猪木さんに恩義を感じているんですよ。

猪木さんと出会えたことがラッキーであり、こんなに性格が複雑にこじれた変な若いヤツをよく組織に入れてくれましたよ。もう感謝しかない。

最近、たまたまネットで佐山さんが西良典とのエキシビションマッチ(95年10月13日、東京武道館。トーナメント・オブ・J'95)をやってる動画が上がってるのを観て、俺はもうビックリしたよ。佐山さんがビビりまくってて、全局面で圧倒されてタップも奪られてね、『えーっ!?』みたいな。

プロレスラーってキレイに二極に分かれるんですよ。言うだけ番長の内弁慶で外に出たらただのヘタレってタイプと、何を言ってようが言ってまいが『何か起きたらその時はやります』って実行するタイプにね。

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