――自由貿易のもう1つの経路とは。
イギリスをはじめとする欧米諸国が、アジアの国々に軍事力で自由貿易を強制したことだ。まず衰退しつつあるオスマン帝国に対し、領内で自由に商売する特権を認めさせた。1840年代に入るとイギリスは、清国に対して二度のアヘン戦争で勝利し自由貿易を強制した。日本にもアメリカのペリー艦隊が開国要求し、1858年に5カ国と修好通商条約が結ばれた。
アジアの東端である日本まで自由貿易が到達すると、2年後の1860年に英仏通商条約が結ばれ、今度はヨーロッパの大国である英仏が相互に関税を引き下げた。それから20年のうちにヨーロッパの主立った国の間で同様の条約が結ばれ、自由貿易的な秩序ができあがった。
――アメリカは自由貿易の例外だったと。
1861年にリンカーン大統領が登場し、南北戦争、リンカーン再選を経てアメリカは強烈な保護主義に変わった。南北戦争の原因は、通商政策の路線の違いにある。綿花を輸出していた南部はイギリスに従属的な自由貿易を主張し、北部・中西部はイギリス従属を脱しようとした。結局、アメリカは外国とはなるべく貿易しない路線を採り、経済的モンロー主義とも呼ばれるようになった。
というのもアメリカは貿易依存度が低く、強烈な保護関税をかけてもやっていけたのだ。産業が発達し、石炭や石油の資源があり、食料を生産できた。人口が増え、フロンティアが西へと動いていた。国内に十分な市場があったので貿易の必要性は低かった。
一方、日本のような後発国は、自由貿易の中で機械や船、鉄道車両といった工業製品を安く輸入できたことで国内の開発が進み、近代産業が全部できあがった。
1870~1914年までの45年間を第1のグローバル経済と呼ぶ。アメリカをのぞいた世界中の国々は歴史上はじめて自由貿易を基調に通商・資本移動・移民で深く結びつき、経済発展が進んだ。そうした中で第1次世界大戦が起きた。
自由貿易がもたらした「繁栄の中の苦難」
――どうして戦争が起きたのですか。
貿易が盛んになる前は基本的に必要なものは国内で作っていたが、自由貿易で双方が比較優位業種(自国の生産する財の中で労働生産性が相対的に高い財)に特化すれば、双方にメリットがあるというのがリカードの唱えた比較生産費説だ。
比較劣位業種は切り捨てられ、失業や倒産、産業の空洞化が起きた。そして、比較優位で繁栄するはずの業種であっても、他国の同業との間で熾烈な競争を繰り広げた。人々は「繁栄の中の苦難」を経験したのだ。
自由貿易で皆が幸せになるはずが、誰にとってもいいことなんてない、という気分が人々の間に広がったところに、国外の敵と国内の裏切り者を指さす安易なナショナリズムの言説が強力に働いた。
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