謎多き「卑弥呼の死」見え隠れする"暗殺説"の黒幕 後継者を指名していなかったことに疑問も残る

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「卑弥呼暗殺説」の黒幕には、いくつかの可能性が考えられるという(写真:撮るねっと/PIXTA)
「親魏倭王」の称号を手に、諸国を統率する倭国王となった卑弥呼ですが、意外なことに、その「最期」については、『魏志』倭人伝にもわずかに「卑弥呼以死」とだけしか記述がないといいます。
そのため、「結論を出すことは難しい」そうですが、駒澤大学名誉教授の瀧音能之氏によれば、卑弥呼の死の詳細についてはいくつかの考察があるそうです。
※本稿は、同氏の著書『最新考古学が解き明かすヤマト建国の真相』から、一部を抜粋・編集してお届けします。

狗奴国との戦時中の「突然の死」

『魏志』倭人伝には、「女王卑弥呼はもともと狗奴(くな)国の男王卑弥弓呼と不和である」と記され、そのため卑弥呼は、正始8年(247)に戴斯(さいし)と烏越(うえつ)らを帯方郡に派遣し、卑弥呼政権と狗奴国が互いに戦っている状況を報告している。

これに対して、魏は帯方郡の官吏の1人である張政を倭国に派遣し、黃幢(こうどう)と檄文を贈った。

黃幢とは黄色い旗のことで、黄色は魏の皇帝のシンボルカラーである。つまり、黃幢は魏の官軍を意味する。

この直後、卑弥呼は死去したことが記されている。

次ページわずかに「卑弥呼以死」のみの記述
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