謎多き「卑弥呼の死」見え隠れする"暗殺説"の黒幕 後継者を指名していなかったことに疑問も残る
年代は明らかではないが、その後、台与は政権の役人20人を張政に随伴させて帰国させた。軍事顧問である張政の帰国が実現したことから、台与政権の時代に狗奴国との争乱が終結したと考えられる。
中国の歴史書から記述が消えた「倭国」
またこの時、台与政権の使者は生口(せいこう)30人を宝物とともに魏に献上している。卑弥呼が魏に贈った生口の数が10人だったことを考えると3倍の数だ。この生口は狗奴国の捕虜とも考えられる。
画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡の分布を見ると、画文帯神獣鏡の流入が見られなかった東海連合の勢力圏に、3世紀中頃以降に三角縁神獣鏡の出土例が多く見られるようになった。
このことから、卑弥呼の死後に東海連合が台与政権に参画したと考えられる。
『梁書』倭伝などには、魏が滅亡した翌年の泰始2年(266)、台与が西晋に朝貢したとみられる記述を最後に、中国の歴史書から倭国の記述は5世紀まで途絶えることになる。
台与政権がいつまで続いたかは不明だが、その後、朝貢の記録がなくなることから、この直後に台与が死亡、あるいは政治的実権を失った可能性が高い。
東海連合が加わったことで政権内のパワーバランスに変化が生じ、台与政権を擁立した北部九州勢力が政権内の主導権を失ったと考えられる。
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