謎多き「卑弥呼の死」見え隠れする"暗殺説"の黒幕 後継者を指名していなかったことに疑問も残る

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持衰とは航海の安全のために船に乗り込み、沐浴(もくよく)も肉食も断って祈りを捧げる。航海が成功すれば多額の報酬の金品が得られるが、もし何か不慮の事態が起これば、持衰の慎みが甘かったせいだとして殺されることもあるという命がけの職業である。いわば保険的な人身御供である。

こうした倭国の風習から、卑弥呼は狗奴国との戦争終結の見通しが見えない中で責任を迫られ、持衰のように殺害されてしまったのではないかとする説である。

『魏志』倭人伝には、女王の死後、男王を立てたが、国中が服従せず、互いに殺し合い、この時、千余人が殺されたという。

卑弥呼の死は老衰と考えるのが一般的な見方だが、それならば高齢の卑弥呼が後継者を指名していなかったことにも疑問が残る。

もっとも、卑弥呼の死因については、保存状態の良い卑弥呼の全身の骨が出土するなどない限り、考古学的に証明することはほぼ不可能に近い。

卑弥呼の死について結論を出すことは今後も難しいだろう。

卑弥呼の死と「狗奴国との争乱」の終結

『魏志』倭人伝には、卑弥呼が亡くなると、男王が立てられたが諸国が服属せず、1000人以上が死亡する内戦が発生した。そのため、卑弥呼の宗女である13歳の台与が立てられたという。

「親魏倭王」となり、王の中の王となった卑弥呼の後継者もまた絶大な力を持つことになる。

これに対して諸国は反発し、再び「共立王」に戻すという妥協点を見出したとも考えられる。「宗女」とは「同族の女性」を意味する言葉だが、これが血族を意味するかは意見が分かれるところだ。

卑弥呼は生涯独身だったことから少なくとも娘ではない。「宗女」とは、卑弥呼政権の主導権を握った勢力の人物だったとも考えられる。

卑弥呼が亡くなる直前に、魏の帯方郡の武官である張政が派遣され、魏の皇帝から授けられた檄文を卑弥呼に教え諭した。

張政はこの檄文を台与にも教え諭していることから、張政は軍事顧問だったと考えられる。

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