謎多き「卑弥呼の死」見え隠れする"暗殺説"の黒幕 後継者を指名していなかったことに疑問も残る

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その記述はわずかで「卑弥呼以死」とのみある。「以死」の解釈には、「そして(卑弥呼が)死んだ」という読み方が一般的である。

卑弥呼の死は248年前後とされる。その後、共立された台与(とよ)の年齢が13歳だったことを考えると、卑弥呼が共立されたのも10代だった可能性がある。倭国乱が180年代とすれば、卑弥呼は80歳近い年齢だったことになり、自然に考えれば卑弥呼の死因は老衰だったと考えられる。

一方で、卑弥呼の死去が狗奴国との戦時中だったことから、戦争によって死亡したとする説もある。

しかし、纒向(まきむく)遺跡に戦争の痕跡がなく、『魏志』倭人伝に「見ること有る者少なし」と記述されるほど、外に出ることがなかった卑弥呼が戦闘で亡くなったと考えるのは難しい。

魏が主導した卑弥呼「暗殺」説

「以死」を「すでに(卑弥呼が)死んでいた」と読むとする解釈もある。このように読んだ場合に可能性があるのが、卑弥呼暗殺説である。

黒幕として浮上するのが魏だ。卑弥呼は諸国を統率する倭国王であり、239年に最高位の称号である「親魏倭王」が授けられた。

ところが、「親魏倭王」でありながら卑弥呼政権は国内の統一がなされず、狗奴国との戦闘に魏から支援を求めるほど弱小だったことから、魏が卑弥呼を見限り、殺害したというのだ。

あるいは、北部九州に主導権を奪われた吉備や、卑弥呼政権に参画したばかりの出雲などの可能性もある。

考古学者の故・森浩一氏は、卑弥呼の使者として魏を訪れた難升米(なしめ)を儺=奴国の王族ととらえた。卑弥呼が死亡する直前に難升米は、張政を連れて帰国している。ここから、張政と難升米が卑弥呼暗殺を画策した可能性も考えられる。

戦死などの特殊な死に方だった場合は『魏志』倭人伝にその記述がないのは不自然だが、魏が暗殺を主導したならば、記述の簡素さにも説明がつく。

卑弥呼が祭祀王であることに着目した説もある。

『魏志』倭人伝には倭人の風習として「持衰(じさい)」という職業の存在を紹介している。

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