宇宙飛行士が50代を前に直面「行き詰まり」の苦悩 野口聡一さんが転職を自分事に感じ始めたとき

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野口聡一さん
野口聡一さん(撮影:倉本ゴリ:Pygmy Company /『宇宙飛行士・野口聡一から学ぶ 50歳からはじめる定年前退職』より)
宇宙飛行士の野口聡一さんは1965年生まれ。IHI入社後、1996年からNASDA(現JAXA)の宇宙飛行士候補者に選抜され、3回の宇宙飛行に成功したことで知られています。しかし2022年6月、定年を前にしてJAXAを退職。現在は、合同会社未来圏代表、国際社会経済研究所理事、東京大学特任教授などを通し、講演活動や大学での教育、研究活動を精力的に行っています。
なぜ野口さんは定年前に新しい道へ進むことを決意したのでしょうか。野口さんの著書『宇宙飛行士・野口聡一の着陸哲学に学ぶ 50歳からはじめる定年前退職』から一部を抜粋し、決断の背景や当時の思いなどに触れてみます。

【次の記事】野口聡一がJAXAを「定年前退職」して築く独自路線

2回のフライト後の行き詰まり

最初に、誤解を解いておきたいことがあります。「3回目の宇宙飛行から帰還した2021年5月の後、私は燃え尽きて目標を見失い、そこから立ち直って転職した」みたいなストーリーで退職のいきさつを語られることが多いのですが、実は、そうではなかったんです。過去の宇宙飛行を簡単に振り返ってみます。

私は1996年に宇宙飛行士に選ばれ、9年後の2005年、アメリカのスペースシャトル・ディスカバリー号に乗って15日間にわたる初の宇宙飛行を経験しました。選抜から10年経って、ようやく宇宙飛行士の仲間入りをしたわけです。

その後、割とすぐに短期間のフライトから長期宇宙滞在へと変革期がやってきて、日本人として私と若田光一さんが一緒に一期生として長期滞在に備えます。結果的に2009年に2度目のフライトを迎え、私はロシアの宇宙船ソユーズに乗った日本人として初の長期滞在(約5カ月半)に成功しました。

この時点で、日本人として ①宇宙滞在の最長記録 ②初めて米ロの宇宙船双方に搭乗 ③船外活動時間の最長記録―のいずれも達成し、日本人宇宙飛行士として頂点に立っていました。

私は、何もかもやり尽くしたという達成感を覚え、もはや日本人宇宙飛行士として目指すものがなくなってしまいました。それまでは、フライトに備えてしゃにむに自分のスキルを磨き、アメリカとロシアで実績作りをしました。それが、2度目のフライトを終えて「次、どうするんだ」と考え込んでしまった。

当時、45歳。そう思った途端、燃え尽き感が襲ってきたのです。

しかも翌2011年には、アメリカ政府とNASAが主導したスペースシャトル計画が終了し、次世代の宇宙船開発はアメリカの企業に委ねられます。新型宇宙船の開発に私なりに魅力を感じたものの、開発は遅々として進みませんでした。

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