「Not Like Us」ラップ歌詞が国境を越え刺さる訳 日本に20年住んで感じた恐怖や排除の反応

今年のスーパーボウルで、グラミー賞とピューリッツァー賞を受賞したラッパーのケンドリック・ラマーが「Not Like Us」を披露した。アメリカの黒人における抵抗の賛歌となったこの曲は、当初はラップのライバルに向けたものだったが、そのメッセージはスーパーボウルで増幅され、ラマーのパフォーマンスは音楽を超えたものとなった。
このタイミングは偶然ではない。アメリカでは2月は黒人歴史月間(BHM)であり、アメリカにおける黒人の歴史的貢献を抹消することに対抗するために設けられた行事である。
しかし今、トランプ大統領とその同盟者たちが多様性、公平性、包摂性(DEI)プログラムを解体し、人種に関する議論を封じ込めたことでBHMそのものが脅威にさらされている。黒人の歴史の抹殺は、もはや単なるイデオロギー的な戦いではなく、積極的な政策となったのだ。
ケンドリックと彼の聴衆が唱えた「They not like us」というフレーズは、アメリカにおける長年の真実に対する反抗的な反応であった。何世紀もの間、アメリカ黒人は自国の部外者として扱われ、その歴史は否定され、貢献は最小限に抑えられ、市民権そのものが争われてきた。
そして今また歴史そのものが彼らを排除するように書き換えられつつあるなか、「Not Like Us」というフレーズは新たな重みを帯びている。
あ、この人たちは私たちとは違う
誰が属し、誰が属さないかを定義するというこの考え方は、決してアメリカだけの現象ではない。私はこの現象がここ日本でも起こっているのを目の当たりにしてきた。
日本は長い間、その均質性を誇りとしてきた。しかし、この均質性には「内」と「外」という暗黙の了解がある。目立つ外国人に出会うと、本能的に「あ、この人たちは私たちとは違う」といったふうに反応する。
この反応は好奇心や憧れからくることもあるが、私の経験では恐怖や排除につながることが多い。内と外の区別は日本社会に深く根付いているのだ。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら