また、朋誠堂喜三二(ほうせいどう きさんじ)や平秩東作(へづつ とうさく)のように、狂歌師のなかには、戯作者としての顔を持つ者も珍しくなかった。そのため、狂歌ネットワークを広げることで、戯作の出版につなげることにも重三郎は成功している。
さらにいえば、粋なイベントのなかで生まれた出版物が刊行されれば、何か面白いことがあったらしいと、本屋に足を運ぶ人も自然と増えるというもの。重三郎が営む蔦重店はトレンド発信の地としても、注目されるようになったという。
重三郎自身が狂歌師としての顔を持つことは「一石二鳥」どころか「三鳥」にも「四鳥」にもなったようだ。
近年は書店の閉店が相次いでおり、本がなかなか読者に届きにくい時代となった。書店や出版社もあれこれと売るための方法を考えて、著者のトークセッションなどのイベントを企画することも少なくない。
読者を巻き込んで盛り上げようというわけだが、重三郎は江戸時代ですでに、そんな仕掛けを行っていたのである。
ブームの終焉を察知して新スタイルを提案
しかし、ばーっと盛り上がったかと思えば、急速にしぼんでいくのが、ブームというもの。狂歌本も例外ではなく、天明期の後半を迎えた頃には、勢いがなくなっていく。
ブームに乗じた商売人たちは、引き際を間違えれば大変なことになってしまう。撤退を急ぐのが上策のように思えるが、狂歌師としての顔を持つ重三郎の考えは違ったらしい。
これまでの狂歌本が飽きられ始めたならば、新たなスタイルを打ち出すタイミングだと言わんばかりに、勝負に出ている。
それは、狂歌に絵を加えた「狂歌絵本」という新ジャンルの開拓だ。重三郎は有名な狂歌師50人の肖像画をそれぞれの狂歌を添えて、色鮮やかな彩色刷にすればウケるはずだと考えた。
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