重三郎がしかけた遊女評判記は、花魁を花に見立てた『一目千本』(ひとめせんぼん)、遊女の紋が入った提灯と桜花を取り合わせてレビューも添えた『急戯花之名寄』(にわかはなのなよせ)、遊女を名所になぞらえた『娼妃地理記』(しょうひちりき)など趣向を凝らしたものばかり。「何としてでも吉原に関心を持たせよう」という執念すら感じる。
吉原に生まれ育った出版人なのだから、客を呼ぼうとするのは当たり前のように思うかもしれないが、重三郎は何も遊郭に集客する本ばかりを作ったわけではない。
美声を持つ富本豊前太夫が評判になったときは、読者が富本節を習得したくなるような富本節の正本と稽古本を刊行。さらに、重三郎は手習いの教科書である往来物の出版も手がけている。
読者の新たな挑戦を後押しする――。重三郎が刊行したラインナップには、そんな出版物が、意外なほどに多いことがわかる。
狂歌の手引き書をいち早くリリースする
そんな重三郎の「読者に行動を起こさせる」というポリシーは、狂歌本においても発揮された。
狂歌とは「五・七・五・七・七」という和歌の形式を用いて、日常卑近のことを題材にしながら、滑稽や風刺、機知を詠み込んだものだ。
イメージしやすいように例を挙げるとすれば、「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、すわりしままに食うは徳川」が、最もよく知られている狂歌ではないだろうか。狂歌のなかでも、このように世相を風刺・揶揄した匿名の作品を「落首」と呼ぶ。
代表的な江戸中期の狂歌人として、唐衣橘洲(からごろも きっしゅう)、四方赤良(よもの あから:大田南畝〔おおた なんぽ〕の別号)、朱楽菅江(あけら かんこう)の3人が「天明狂歌三大家」とされたが、そのうちの橘洲と南畝が対立する。
橘洲が南畝とその親友である菅江を編集者から外して『狂歌若葉集』を企画すると、南畝・菅江らも『万載狂歌集』を制作。天明3(1783)年に2つの狂歌集が刊行されることになった。読者の人気が高かったのは、多彩な人々の歌を収載した『万載狂歌集』のほうだったという。
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