蔦屋重三郎「ブーム終焉こそ仕掛け時」意外な戦術 狂歌本が飽きられ始めた?蔦重が打った策

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それまで狂歌は会の場での詠み捨てが原則とされていた。つまり、「その場限りで楽しみましょう」というものだったが、互いの対抗意識から発刊された2冊の狂歌集によって流れが変わり、狂歌ブームが巻き起こる。

狂歌ならば気軽に作りやすい。おそらく自分も詠んでみたいという人が増えるはず……いち早くそう考えたのが、重三郎である。

読者に行動を起こさせるべく、初心者に向けた狂歌の手引き書を刊行している。天明3(1783)年3月に発刊された、元木網編の狂歌作法書『浜のきさこ』である。重三郎は見込んだ人物に序文を依頼することが多いが、このときには南畝に頼んでいる。その後、重三郎は南畝との仕事を増やしていく。

狂歌人となりネットワークを構築する

注目したいのは、重三郎はブームに乗じて出版物をただ仕掛けただけではなく、自らもプレイヤーとして参戦したということ。「蔦唐丸」(つたのからまる)と号して狂歌師になり、狂歌本の書き手たちと同じ立場で、狂歌を存分に楽しんだのだ。

蔦唐丸の作品としては、次のようなものがある。

「きぬきぬは 瀬田の長橋 長ひきて 四つのたもとそ はなれかねける」

「きぬきぬ」とは「後朝」と書き、夜をともにした男女が翌日に別れることをいう。なかなか別れがたく、瀬田の長橋のように別れの時間が長引くものだという。「四つのたもとそ」は、午前3時頃の四ツ刻に、男女の袖が4つ重なって、なかなか離れがたい……という意味の狂歌になっている。吉原に身を置いた重三郎の視点が生かされた作品といえそうだ。

プレイヤーになれば、狂歌師たちがどんなことを望み、どんなニーズがあるかが、手に取るようにわかる。重三郎は「舟遊びをしながら狂歌を詠む」というイベントを企画。狂歌師たちを集めて、わいわいと狂歌を詠んで盛り上がる場を提供しながら、そこで生まれた作品を木版印刷による摺物や冊子というかたちでまとめる……という一連の流れをプロデュースした。『狂歌百鬼夜狂』(きょうかひゃっきやきょう)は、まさにそうして生まれた狂歌集である。

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