このときは無記名だったが、2年後の安永4(1775)年に『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』の作画を担当したことで、春町の名は広く知られることになる。
鱗形屋孫兵衛が発刊した『金々先生栄花夢』は、子ども向けの草双紙のスタイルをとりながら、ウィットに富んだ大人の笑いをちりばめるというこれまでにない戯作で、大きな反響を呼んだ。『金々先生栄花夢』の表紙が黄色だったことから、これ以後の草双紙は「黄表紙」と呼ばれ、春町はそのパイオニアとなったのである。
春町は喜三二と同じく留守居役だったということもあり、2人は互いによい刺激を与えあう関係になったようだ。
安永6(1777)年には鱗形屋孫兵衛から、『親敵討腹鞁』『女嫌変豆男』『珍献立曽我』『南陀羅法師柿種』『鼻峰高慢男』『桃太郎後日噺』の6点の黄表紙が、「作:朋誠堂喜三二、絵:恋川春町」で刊行されることになる。
人気作家コンビを鱗形屋から引き継いだ蔦重
そんな喜三二が重三郎と仕事をするようになったのも、安永6年のことだ。3月に重三郎が華道書『手毎(ごと)の清水』を発刊すると、その序文とあとがきを喜三二が引き受けている。
また8月には絵本仕立てで吉原を番付した『明月余情』(めいげつよじょう)が、重三郎によって発刊され、その序文も喜三二が寄稿している。その後、12月に重三郎が出版し、喜三二によって編まれたのが、先に紹介した『娼妃地理記』である。
いろいろな場面で喜三二の力を借りているうちに、重三郎は手ごたえをつかんだのだろう。安永9(1780)年には、黄表紙の刊行をスタートさせることになる。その背景には、鱗形屋孫兵衛が重板事件で処罰されたことがあった。
当時、同じ出版物をタイトルだけ変えて出すことは「重板」として禁じられていたが、鱗形屋の使用人がその禁を犯す。鱗形屋が訴えられて、罰金を払うことになった。これが安永4(1775)年5月のことで、重三郎はこの好機を見逃さずに、吉原細見の発刊に乗り出すことになる(参照『蔦屋重三郎「吉原ガイドブック」独占した凄い才能』)。
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