「松平定信が激怒した」江戸の創作者の悲惨な最期 重三郎とも仕事をした喜三二と春町だったが

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どうもそこから鱗形屋の経営が傾き始めたらしい。資金難によって黄表紙の刊行が難しくなってしまうと、このときもまた重三郎が「機を見るに敏」とばかりにチャンスをものにしている。

安永9(1780)年に重三郎は『鐘入七人化粧』(かねいりしちにんげしょう)、『廓花扇観世水』(くるわのはなおうぎかんぜみず)、『竜都四国噂』(たつのみやこしこくうわさ)など、喜三二作の黄表紙をたて続けに刊行した。

また、天明3(1783)年からは恋川春町とも交流し、『猿蟹遠昔噺』(さるかにとおいむかしばなし)などヒット作を連発。鱗形屋に代わって、朋誠堂喜三二と恋川春町という人気作家を抱え込むことに、重三郎は成功している。

二人のベストセラーが老中を怒らせたワケ

武士でありながら、戯作者としての才能を存分に開花させた、朋誠堂喜三二と恋川春町。重三郎も二人の活躍に一役買うかたちとなったが、盟友同士で刺激し合って創作に励んだことが、思わぬ方向へと転がっていく。

天明8(1788)年、重三郎は喜三二作の『文武二道万石通』(ぶんぶにどうまんごくとおし)を出版すると、コミカルな内容が大人気となり、ベストセラーとなった。すると、負けていられるかとばかりに、今度は春町が意欲作に取り組む。

翌年の寛政元(1789)年に重三郎によって世に放たれたのが、春町の『鸚鵡返文武二道』(おうむがえしぶんぶのふたみち)。これもまた世間で大評判となった。重三郎のプロデュースが二人の才能を存分に引き出したといえよう。

ところが、両作には大きな問題があった。それはともに、田沼意次に代わって老中となった松平定信の政策を茶化しているということだ。

喜三二作の『文武二道万石通』は、鎌倉時代にダラダラしていた武士が、突然の文武奨励の政策に慌てふためくというもの。春町の『鸚鵡返文武二道』にいたっては定信が書いた『鸚鵡言』を茶化した内容だった。

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