御上先生問う「ディベート」日本で根付かない背景 日本人は議論が苦手?なかなか浸透しない理由

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――日本ではなぜ、ディベートの授業は浸透していないのでしょうか?学校教育の中にディベートを取り入れるべきだという論調は多いですが、ディベートの授業はなかなか広まっていない現状があります。これは一体どうしてなのでしょうか?

実際、ディベートは日本人に向いていないんですよ。なぜなら、日本人は『発言と人格の一体化』ということをしてしまいがちだからです。

自分と相手の意見が相反するときに、『自分は相手とは相容れない』と考えてしまう人は多いですよね。人間、どんな主義主張を持っていようが、どんな考え方の人間だろうが、それとは関係なく、仲良くすることができるはずです。むしろ欧米の国々ではそういう考え方が主流ですよね。

でも、多くの日本人は、この部分を分離して考えるのが苦手です。ある意味で、人のことを感情的に見てしまう場合が多いのです。

本来、意見とはどの立ち位置で発言をしているのかによって変わるものです。親としての立場だとAだけれど、先生としての立場だとB、といった違いがあって然るべきです。

しかし日本では、それを許容しない人も多いですよね。ディベートが根付かないのは、むしろ当然かもしれません。

学校でディベートを広めるべきではない?

――日本ではディベートは浸透しづらいわけですね。ということは、学校ではディベートは広めるべきではないということでしょうか?


私は、むしろ逆の見解を持っています。日本人はディベートが苦手だからこそ、日本ではもっとディベートの授業が広まるべきだと思います。

教育はそもそも、自分ができないことをできるようにする営みであるべきです。その点で言うならば、日本人は確かにディベートが苦手で、向いていない人が多いのですが、だからこそディベートをもっとしたほうがいいのではないかと。発言と人格は別でいいということを、小さいうちから学ぶ必要があると思います。

――そのほかに、日本でディベートが浸透していない理由はどんなものが考えられますか?

それはきっと、先生たちの中にある『経験の拘束』のせいなのではないかと、私は考えています。

つまり、先生自身が受けてきた教育の記憶が色濃く、先生がこれまで受けてきた教育の経験の中でしか、授業をすることが難しくなっているのではないか、ということです。

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