死を忌避し苦しみ長引く「安楽死」を巡る正論とは ALS患者は最後に眼球とまぶたしか動かせなくなる
私自身、在宅訪問診療でALSを患う女性を担当し、症状が悪化する中で、「もうこれ以上苦しみたくないから、あれをお願いします」と言われたことがある。「あれ」が安楽死を意味するのは明らかだった。
「軽い気持ちで言うてるのとちがう。自分ででけへんから頼んでるの」
かすれる声でそう言いながら、苦労しながら左手の手首を上に向けると、動脈を切ろうとしたらしい傷痕が二本あった。
私は困って、「今はそれはできないんです」と伝えると、ため息をつき、「先生なら、やってくれると思うたのに」と言われ、もう何とも応えようがなかった。そのときの患者さんの苦しみは見るに堪えないもので、本人とご主人に「命を縮める危険性もありますが」と説明したうえで、強い鎮静剤を投与して意識を取る薬を連続投与した。
京都の事件で安楽死を実行した医師を責め、患者さんに生きていてほしかったと言う人たちは、患者さん本人の苦しみをどれほどわかっているのか。その苦痛を取り去ったうえで、生きていてほしいと願うならまっとうだが、それをせずに単に生きていてと願うのは、先に述べた通り「我慢して生きろ」と言っているに等しく、思いやりがあるとは思えない。
裁判を傍聴した同じALSの患者さんは、医師の行為に対し、「医療の知識を用いた殺人にほかならない」と憤りをあらわにしたと新聞の記事にはあり、「だからこそ、死にたいと思う原因を取り除く方法を社会に考えてもらいたい」と訴えたとあった。しかし、そんなことができるのか。それが十分にできないから、女性は苦しみ、死を望んだのではないか。
自分が死にたくないから、ほかの患者さんにも死ぬなと言うのは、ある意味、意見の押しつけだ。苦しみながらも頑張って生きている人は立派だが、自分が頑張っているから、他人にも頑張れと言えるのだろうか。それは個人を尊重する考えと相反するように思える。
女性患者さんの父親は、娘を安楽死させた医者を「人でなし」と批判していた。その気持ちは当然かもしれないが、もしも亡くなった女性患者さんがあの世から交信できたら、こう言うのではないか。
――お父さん、そんなふうに言わないで。わたしは先生のおかげで苦しみから逃れられたのだから。
もしも自分だったら
ALSの患者さんを受け持って、その苦しみを知り、安楽死を求められた経験もある私は、今回の事件の被告医師を一概に批判する気になれないが、一方で、自分がALSを患ったらどうかと考えると、また心は乱れる。
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