7歳で両親が離婚「蔦屋重三郎」の壮絶な生い立ち 養子に出た重三郎の実の父と母に対する感情

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大河ドラマ べらぼう 蔦屋重三郎
蔦屋重三郎ゆかりの浅草。写真は浅草鷲神社酉の市(写真: nikomani / PIXTA)
今年の大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』は横浜流星さんが主演を務めます。今回は主人公である蔦屋重三郎の実父と実母について解説します。
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重三郎の生い立ちが記された墓碣銘

大河ドラマ『べらぼう』の主人公・蔦屋重三郎の生い立ちについて記された史料の1つに、「喜多川柯理墓碣銘」があります。

この墓碣銘を書いたのは、重三郎と同時代人であり、交流もあった石川雅望(1754〜1830)です。浮世絵師として名高い石川豊信を父に持つ雅望は、学問に精進しつつも、狂歌にも関心を寄せ、大田南畝のもとで学びます。狂歌を量産し「関東狂歌界に大きな影を落とした」「天明狂歌四天王の1人」とまで評されました。

重三郎と雅望は仲がよく、重三郎が出版した狂歌に関する書籍には、雅望が編者の1人となっているものもあります。

雅望の家業は旅籠屋(江戸・小伝馬町)だったのですが、その家業に関連することで、無実の罪を着せられ、江戸追放の憂き目を見たこともありました。

こうして他国に10余年も蟄居することになる雅望。重三郎は、寛政9年(1797)に亡くなりますが、その頃には、雅望はまだ他国にいたのです。

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