7歳で両親が離婚「蔦屋重三郎」の壮絶な生い立ち 養子に出た重三郎の実の父と母に対する感情
雅望は、墓碣銘において、重三郎の死を「十里」隔たったところで、驚きを持って聞いたと書いています。「悲痛」の文字も見え、雅望の悲しみと衝撃の深さが窺えます。
では、墓碣銘には具体的に何が書かれているのでしょうか。
冒頭には「喜多川柯理本姓丸山蔦屋重三郎と称す」とあります。つまり、重三郎の姓は「丸山」だと言うのです。重三郎の父は(丸山)「重助」という名だったようです。母は「広瀬氏」とあります。
この2人の間に、重三郎が生まれたのは「寛延三年庚午正月初七日」(1750年1月7日)のこと。「江戸吉原の里」で生まれました。
重三郎の母の下の名は「津与」と言いました。墓碣銘によると、江戸生まれだったようです。一方で、父の丸山重助は尾張国(現在の愛知県)出身でした。
重助と津与がどのように結ばれたかまでは、墓碣銘に書かれていませんが、重助が尾張から江戸に出てきて、津与と出会い、結ばれたのだろうと想像できます。
2人の間に生まれた重三郎ですが、本名は「柯理」と言いました。重三郎というのは通称です。重三郎の「重」の字は、父・重助の「重」を貰ったものと推測されます。重三郎に兄弟がいたのか、父・重助がどのような人物で、何を生業にしていたのかまではわかりません。
ただ、遊郭がある吉原に住んでいたということから、吉原にまつわる仕事に就いていた可能性もあるでしょう。
父母と離れて養子に出される重三郎
吉原に生まれた重三郎ですが、幼少期の彼に不幸が襲います。両親が離婚してしまうのです。重助と津与がなぜ離縁したかは不明ですが、津与は幼い重三郎を残して、家を出て行ってしまうのでした。重三郎は後に、母と離れたのは7歳の時と回想しています(「実母顕彰の碑文」)。
墓碣銘には、その後の重三郎の動向も記されています。そこには「幼くして、喜多川氏所養」とあります。喜多川氏が経営する商家の蔦屋の養子になったのです。これは、年齢から考えてみても、重三郎の意思とは無関係だったでしょう。
年少の頃に、自らの意思とは無関係に、父母と離れざるをえなかった重三郎。生い立ちは不幸だったと言えます。
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