7歳で両親が離婚「蔦屋重三郎」の壮絶な生い立ち 養子に出た重三郎の実の父と母に対する感情
さて、重三郎の生い立ちについて書かれたものには、戯作者・大田南畝(1749〜1823)による「実母顕彰の碑文」もあります。
南畝もまた重三郎とは深い仲にあり、蔦屋から複数の書物を出版しています。「実母顕彰の碑文」の「実母」とは、南畝の母のことではなく、重三郎の母・津与のことです。
7歳で離れても母を慕った重三郎
寛政4年(1792)10月26日に、津与は病で亡くなるのですが、母を慕う重三郎が南畝に一文の執筆を依頼したのです。南畝は碑文のなかで、重三郎の堅固な意思は、母・津与の「遺教」によるものだろうと述べています。
7歳までしか一緒にいなかったのかもしれませんが、重三郎の母への想いというものがわかりますし、重三郎は幼いながらも、母から受けた「教育」をしっかりと胸で受け止めていたのでしょう。
この「碑文」にも「広瀬氏は書肆耕書堂の母」であること。母の「諱」(実名)が「津与」で「江戸人」であること、重三郎を生んでから家を出たことなどが記されています。
ちなみに、重三郎は、母の墓碣銘は残していますが、父のものは残していません。母のほうに心を置いていたと言えるのかもしれませんが、父に関しては無関心だったというわけではありません。
墓碣銘に「後移居油街、乃迎父母奉養」(後、居を油街へ移す、乃ち父母を迎えて奉養す)とあるように、重三郎は、大人になってから、父母を日本橋通油町の新居に迎えているのです。これは、天明3年(1783)のことと考えられます。重三郎は、父のこともしっかりと考えていたのです。孝行息子というべきでしょう。
「喜多川柯理墓碣銘」と「実母顕彰の碑文」は、浅草の正法寺(重三郎の菩提寺)にありました。これらは「震災や戦災の被害によって今は見ることができない」(松木寛『蔦屋重三郎』講談社、2002年)のですが、再建はされています。
正法寺は日蓮宗の寺院です。同寺や墓碣銘は、大河ドラマの放送によって、脚光を浴びることでしょう。
(主要参考引用文献一覧)
・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002)
・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024)
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