大河「光る君へ」で描かれた"道長の死"のその後 摂関政治が終焉を迎え、院政の時代へと突入

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摂関政治の全盛期を築いた藤原道長は、長女の彰子を一条天皇のもとに入内させた。2人の間には、敦成親王が誕生。一条天皇にとっては第2皇子であるにもかかわらず、道長は自分の孫であるという理由で、敦成親王を皇太子に据えさせている。

一条天皇の退位後は甥の三条天皇が即位するも、道長は三条天皇を退位に追い込み、敦成親王が後一条天皇として即位することとなった。

後一条天皇が即位するにあたっては、三条天皇の第1皇子である敦明親王が皇太子となるが、やがて三条天皇が亡くなり後ろ盾を失うと、自ら皇太子を辞退。そこには道長の圧があったに違いない。代わりに皇太子となったのが、同じく道長の孫で、後一条天皇の弟・敦良親王である。後一条天皇が死去すると、敦良親王が後朱雀天皇として即位する。

そんな後朱雀天皇の第2皇子として生まれたのが、後三条天皇である。後朱雀天皇から第1皇子の後冷泉天皇へと皇位が引き継がれるも44歳で死去したため、弟である後三条天皇が即位することとなった。

光る君へ 大河ドラマ 藤原頼通 後三条天皇
後三条天皇の陵(写真:クロチャン / PIXTA)

即位時に後三条天皇はすでに35歳になっていた。12歳で皇太子となっていたため、実に20年以上、東宮だったことになる。後三条天皇の即位を邪魔し続けた男がいたからだと思われる。その男とは、関白の藤原頼通である。

後三条天皇の即位を邪魔した関白の頼通

なぜ、頼通と後三条天皇の関係性は悪かったのか。

後三条天皇の母は誰かというと、三条天皇の第3皇女で、後朱雀天皇の皇后・禎子内親王だ。この禎子内親王は、三条天皇と道長の次女・妍子との間に生まれた娘である。

かつて道長は一条天皇のもとに彰子を送り込んで孫の敦成親王を即位させたように、三条天皇には次女の妍子を送り込んでいた。何かと対立することが多かった道長と三条天皇だが、妍子が懐妊したときには、関係性が改善したようだ。それでも、子どもが皇子ではなく皇女とわかると、道長は途端に冷淡な態度をとったという。

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