大河「光る君へ」で描かれた"道長の死"のその後 摂関政治が終焉を迎え、院政の時代へと突入

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つまり、禎子内親王からすれば、道長は母方の祖父にあたると同時に、父・三条天皇を退位に追いやり、兄の敦明親王に皇太子の辞退という悲運をもたらした人物でもある。しかも、自身の誕生を喜ばなかったのだから、おそらく母から道長についてよい話を聞いていないだろう。

不仲だった道長と三条天皇との関係性が引き継がれるかのように、道長の息子で摂政の頼通もまた、後三条天皇との関係性は悪かった。頼通は、後冷泉天皇が即位すると、のちに後三条天皇となる尊仁が皇太子になることのないように、出家させるように働きかけていたという。出家工作が実らずに尊仁が東宮になると、慣例であるはずの宝剣の授与を行わないなど、冷遇を決め込んだ。

そんな頼通の嫌がらせにも負けずに、20年もの皇太子の時代を経て、治暦4(1068)年に即位した後三条天皇。形としては「両親ともに道長の孫」ということになるが、後三条天皇は摂関家とは距離を置き、自身の力で政治を切り拓くことになる。

摂関政治から院政の時代へ

のちに後三条天皇となる尊仁が、頼通の陰謀によって出家させられそうになったとき、全力で阻止した人物がいる。頼通の異母弟である頼宗や能信だ。

道長は源倫子と結婚してすぐに、源明子を2番目の妻としたが、その源明子の子どもたちは、後三条天皇をバックアップすることとなった。

治暦3(1067)年、後三条天皇が即位する直前に、頼通は関白を辞職。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇と三朝にわたって摂政・関白に就き、51年も政権を維持した頼通が隠遁することとなった。

新たな関白としては、頼通の同母弟で、外戚になる可能性はない高齢の教通が就くことになった。後三条天皇は関白が政治に口出しすることのないように強い態度で臨み、即位してすぐに改革へと乗り出していく。

有能な大江匡房らを重用しながら、後三条天皇が行った政策の一つが「荘園整理事業」である。延久元(1069)年に「延久の荘園整理令」を発布すると、太政官庁内の朝所に「記録荘園券契所」を設置。荘園の所有者に面積や成立時期について報告させたうえで、一定の基準に合わない荘園を没収して公領としている。

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