韓国「本当の」戒厳令を経験した日本人の回想 1970~80年代、軍人によって抑圧された社会のリアル
――留学生活も最後のほうになって大事件が起きます。1979年10月の朴正熙暗殺事件、そして1980年5月の光州事件です。
「日本語を話す気になれません」
戒厳令が布告された当時の新聞をはっきりと記憶しています。新聞の見出しに印刷された「戒厳令」はハングルではなく漢字でした。漢字で印刷された「戒厳令」という文字は、ハングルよりも余計におどろおどろしく感じました。
光州事件が発生したころ、ある銀行からの依頼を受けて、日本への赴任を予定している行員6人に合宿形式で日本語を教えていました。
光州事件に対して当局は厳格な情報統制を行っていましたが、それでもテレビでは関連情報が放送されていました。6人はテレビに釘付けでした。そのうちの1人が「宮塚先生、きょうは日本語を話す気になれません」と言ってきたのです。
あまりの混乱ぶりに気が気でなかったのでしょう。結局、6人は一時帰宅してしまい、私だけが教室のある研修所で寝泊まりするという笑うに笑えない状況にもなりました。
――それから約7年後の1987年6月に、韓国は民主化を達成します。
私が帰国した後の1982年に、先にお話しした夜間通行禁止令が解除されます。後から聞くと、国民の誰もが解放感いっぱいで心から喜んだそうです。同時に、それ以降、大学生を中心とした反政府デモなどが活発化します。
実は禁止令があったときも1年に3日だけ、5月の釈迦誕生日とクリスマス、そして大晦日は禁止令が解除されました。
1年に3日だけに許される解放感に包まれた韓国社会の様子は、とても印象的でした。誰もが喜々として外出し遅くまで外にいた。いつもは見られない市民の表情をみたのも、この時です。
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