韓国「本当の」戒厳令を経験した日本人の回想 1970~80年代、軍人によって抑圧された社会のリアル

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金大中事件=「金大中拉致事件」ともいう。1973年8月8日、当時野党の有力政治家で、1971年の大統領選挙で朴正熙にとって最大のライバルだった金大中元大統領が、東京のホテルで韓国の情報機関・韓国中央情報部(KCIA)の要員に拉致され殺害寸前までいった事件。日本国内で韓国の情報員が堂々と拉致という犯罪を犯したことで日韓関係が極度に緊張した。
民青学連事件=ソウル大学をはじめとする国内大学で「全国民主青年学生総連盟」(民青学連)名義で政治的な内容の印刷物が捲かれた。これを当時の朴正煕政権が「共産主義者の老農政権樹立を企図した」とし、緊急措置4号を布告。尹潽善(ユン・ボソン、1897〜1990年)元大統領や知識人、学生などを連行、起訴した。この事件を取材していた日本人ジャーナリストと通訳をしていた日本人留学生も内乱扇動罪で起訴、懲役20年が処され、日本でも韓国の政治状況に関心が高まった。
文世光事件=在日コリアン2世の文がソウルで開催された「光復節」(日本の植民地支配から解放された日の8月15日)記念式典で演説中だった朴正熙を狙撃した事件。文が発射した銃弾は、壇上にいた朴正熙の妻・陸英修(ユク・ヨンス)氏に当たり陸は死亡した。文が朝鮮総聯側の在日コリアンだとされ、北朝鮮の関与を政権側が疑った。また、文が所持していた拳銃は、大阪市内の派出所で盗まれたものだったこともあり日韓関係で大きな問題となった。
KCIA=大韓民国中央情報部。現在の大韓民国国家情報院の前身。1961年設立。1981年に「国家安全企画部」に改組され、1999年に国家情報院となる。

――3つの事件は北朝鮮の影も見えたり、日本も大きくかかわる事件ばかりですね。

「あなたの側にも……」。1990年代に当時の国家安全企画部(現・国家情報院)が作成した、北朝鮮からのスパイ申告を促すポスター。申告には懸賞金もかけれられていた(写真・宮塚コリア研究所)

それだから朴正熙政権は「敵は日本から来る、北朝鮮の手先は日本から伸びてくる」と警戒していたはずです。しかも1968年1月に「青瓦台(大統領府)襲撃未遂事件」がありました。北朝鮮の特殊部隊が朴正熙がいる青瓦台付近まで接近し、あやうく大統領府が攻撃されそうになった事件です。北朝鮮への警戒は極度に達していました。

こんなことがありました。ある日公安につかまり、「おまえの手帳を見せろ」と言われたのです。なぜ手帳か。どうも民青学連事件は、容疑者の1人が所持していた手帳にあった名前や電話番号から、芋づる式に関係者を摘発できたことがあったようです。

「手帳を持って外出しないほうがいいぞ」と言われました。それ以来手帳は持ち歩かず、持っていても個人名などは書かないようにしました。

「おまえは北のスパイか?」

――当時、韓国内で北朝鮮の存在感、敵対心、警戒心が現在よりもはるかに強かった。

そうですね。私はソウルの中心・光化門(クァンファムン)で留学時の保証人が所有するビル内の事務所で寝泊まりしていた時期がありました。事務所近くの喫茶店、当時は「茶房」(タバン)と言っていましたが、そこによく通っていました。

ある日、顔なじみとなった従業員に自慢しようとラジオを持ち込み、「これはソニー製の短波ラジオだから、北朝鮮からの放送もよく聞こえるよ」と言ってしまったのです。

すると、どこに潜んでいたのか2人の男が出て来て、私の両脇をがっしりとはさみ、「おまえは北(朝鮮)のスパイか?」と。そのまま近くの交番まで連行されました。うかつな発言でした。

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